医者が患者をだますとき


第7章 医者のあきれた実態

医者に対する世間の誤解


 医者はよく「われわれは患者に対して特別な力を持っているわけではない」と言う。 そんなとき、私はいつも笑ってしまう。 笑い終えたら、必ずこう問い返すことにしている。
 「服を脱ぎなさいと言えば、相手はそのとおりにする。こんな力を持った人間が、どれくらいいるかね?」

 医者は現代医学教の聖職者だから、ほとんどの人は安心して自分の命まで預ける。 なんといってもお医者様は誠実で、高潔で、有能で、健康で、知性と教養にあふれ、医学の道をまっすぐに歩んでおられる素晴らしいお方だ。 おそらく、それが世間一般の人々の認識だろう。

 しかし、それは事実誤認も甚だしい。 医者はただの人間だ。 しかも最悪の意味においてである。 大多数の医者はそのような美徳とはおよそ縁がない。 事実を知れば、ほとんどの医者が不誠実で、卑怯で、無能で、不健康で、知性と教養に欠け、かなりの愚か者であることがわかるはずだ。 しかも、その度合いは一般の人よりもひどいことが多い。

 医者が状況に適切に対処できない典型的な例として私がよく引き合いに出すのは、議会の公文書に記録されている出来事である。
 エドワード・ケネディ議員が上院保健問題小委員会の公聴会で、青年時代にスキーで肩に怪我をしたときの体験談を披露したことがあった。 彼の父親が四人の専門医を呼んで息子を診察してもらい、とるべき処置を尋ねたところ、三人が手術を勧めた。しかし、父親は残りの一人の医者の意見に従い、息子には手術を受けさせないことに決めた。 やがて怪我は自然に治った。
 この公聴会にはバーモント大学医学部教授のローレンス・ウイード博士が呼ばれていた。 患者志向医療記録法(博士にちなんで「ウイーディング」と呼ばれる)の発案者である。 議員たちが意見を求めたところ、博士は「その怪我は手術をしなくとも自然に治るものだった」と答えた。
 医者を公式にテストすると、あまりいい結果が出ない。 抗生物質の処方に関する最近のテストでは、半数の医者が正解率は68%以下だった。
 医者に身をゆだねることがいかに危険かはこれまで見てきたとおりだが、その危険は治療法そのもののリスクに由来するだけではない。 医者は治療を行うときに医療ミスを犯しがちなのだ。

 私は医者と会うとき、偏狭かつ独善的で、論理的な思考や慎重さとはおよそ無縁な人間を想定する。 そして実際に会ってみると、たいてい予想通りである。
 医者に高い論理を期待することはできない。 ハーバード大学医学部のロバート・エバート博士とルイス・トマス博士は、どちらも医学部長という立場にありながら、大手製薬会社スクイブ社(現ブリストル・マイヤーズスクイブ)の顧問として活動して、同社のドル箱商品ミステクリンの販売停止措置を解除するようFDAに口利きをしていた。 エバート博士は「最善のアドバイスをするために率直な意見を述べたまでだ」と言った。 スクイブ社の当時の副社長ノーマン・リターはこの二人に現金を支払ったことを認めたが、博士は自分が受け取った「謝礼」の具体的金額については名言を避けた。
 その後、エバート博士はスクイブ社の理事に就任し、一万五千ドル相当の同社の株式を所有していることを認めた。


密室の中の偽装、データーはお金しだい


 がんと先天性欠損症の科学的原因の研究の世界的権威で、アメリカがん撲滅協会の理事であり、ケース・ウエスタン・リザーブ大学の教授を務めたサミュエル・エプスティン博士は、上院栄養問題特別委員会で次のように証言している。
 「アメリカ科学アカデミーは利害が複雑に絡んでいる組織だ。食品添加物のような重要問題を決定する調査団が、規制の対象である業界や企業の関係者で構成されることがよくある。 アメリカでは、金さえ払えば自分たちにとって都合のいいデーターを全て揃えることが出来るのが実情だ」

 いんちきな研究報告は日常茶飯事だから、新聞もいまさら大きく取り上げたりはしない。  FDAが新薬の臨床試験について綿密な調査をしたところ、使用量の虚偽報告やデーターの改変と捏造が頻繁に行われていることが明らかになった。
 こうした不正行為の背景には、医者が製薬会社に雇われてFDAの新薬の許認可の基準に合格するような報告書を提出するという事情がある。 国の助成金をめぐる競争が激化しているため、医者は少しでも有利な報告書を作成しようと躍起になっている。 研究にかかわる医者はだいたい同じようなことをしているから、誰かがいい加減な実験をし、あいまいな分析をし、いんいきな報告書を作成しても、見てみぬふりをしているのが実情だ。

 コロラド大学の微生物研究者アーネスト・ボレク博士は、こう言っている。
 「捏造したデーターや、そこまで露骨ではなくても不自然と言わざるをえないデーターが、
  科学誌にそのまま掲載されるケースが最近ますます増えている」
 また、ノーベル生理学・医学賞を受賞したマサチューセッツ工科大学の分子生物学教授サルバドル・ルリア博士は、このように言っている。
 「共同研究者の一人がデーターを捏造したために、それまでたいへん高い評価を受けていた科学者が
  研究報告を撤回する羽目になったケースが、私の知るかぎり少なくとも2件ある」

 この手のいんちきな研究の典型をもうひとつ紹介しておこう。
 がん治療に関する世界最大の民間研究機関ソローン・ケタリング研究所で起きた出来事だ。
 研究員だったウィリアム・サマリン博士は、マウスの組織の移植が成功したと見せかけるために、マウスの皮膚に着色していたことを認めた。
 動物実験の体に着色するといういんちき研究の先駆者は、パウル・カンメラーというオーストラリアの生物学者である。
フランスの博物学者ラマルクが唱えた用不用説(後天的に獲得した形質が子孫に伝達されるとする進化論学説)を証明するため
カンメラーはカエルの足に着色したのだ。 しかし、イギリスの批評家アーサー・ケストラーが「サンバガエルの謎」という本でそれを暴露すると、カンメラーはピストル自殺を遂げた。

 アメリカの化学基地局のリチャード・ロバーツ博士はこう語る。
 「科学者が雑誌で発表するデーターの半分かそれ以上が無効である。研究者が正確にデーターを測定したと言う証拠もないし、誤差をうむ要因をすべて排除したという証拠もない」
ただ、「データーの半分かそれ以上が無効」と言われても、医学雑誌を読む側はどっちの半分が無効なのかわからないから、読めば読むほど頭が混乱する。
 化学記事が信用できるかどうかを見極めるためには、注釈などで資金源を調べることだ。 薬の安全性についての製薬会社のデーターは信憑性に乏しい。 医者は大きな利害が絡むと、データーの改変や捏造を平気で行うからだ。

 アイオワ州立大学の心理学者レロイ・ウォリンズ博士は、学生たちに化学論文の執筆者37人にあてて手紙を書かせ、論文の根拠となったデーターの提供を求めた。 回答してきた31人中21人が「データーを紛失した」とか「誤って破棄した」と返答した。 届いた7つのデーターを分析し、博士は「その七つのうちの三つに重大なミスが含まれてるため、科学的事実として扱うことはできない」と結論付けた。

 もちろんいんちきな研究はいまに始まったことではない。 十九世紀、オーストラリアの生物学者で「遺伝学の父」と称される
グレゴール・メンデルも、その一人だ。 自らが唱えた遺伝学の理論に完全に適合させるために、エンドウの交雑実験で得られたデーターを改変していた可能性があるのだ。 メンデルの理論は正しかったが、彼が発表したデーターを統計的に分析すると、彼の理論が自らの実験から導き出された確率は一万分の一程度しかないことが実証されている。

 医者の非論理的な行動は、医療の分野だけにとどまらない。 有名な手術法の開発にかかわったことで知られるある医者は、5年間で25万ドル以上を脱税し、5件の脱税容疑で有罪判決を受けた。 アメリカ医師会の理事会会長が、180万ドルの基金を横領した容疑で告発されたこともある。 彼は有罪を認め、懲役1年6ヶ月の実刑判決を受けた。
 FBIはこの事件についてこう発表している。
 「(同会長は)他の被告数人と共謀し、不正な利益を得るために融資を取り付けることをたくらみ、・・・・・口座に資金が不足しているにもかかわらず小切手で返済しようとし、・・・・・政府に対して詐欺行為をした」
 これは決して例外的なことではない。 アメリカ医学界の最高レベルで、こんなことが日常的に行われているのだ。 職務違反、データーの改変と捏造、公金横領。 これが現代医学教の代表的機関であるハーバード、イェール、アメリカ科学アカデミー、
アメリカ医師会の高位聖職者のあいだでまかり通っているくらいだから、他の大学や医療機関の聖職者の腐敗ぶりを想像してみてほしい。


自分を治せない医者たち


 医者の仕事は人びとの健康管理である。 しかし皮肉なことに、その医者が概して一般の人々よりも不健康なのだ。 全米の医者を対象に、健康状態と薬物汚染を調べた統計を紹介しよう。

  ● 精神障害を起こしている医者          17,000人(全体の20人に1人)
  ● アルコール依存症の医者            30,000人以上(全体の10人に1人)
  ● 麻薬を常用している医者              3,500人(全体の1%)

これらの数字は、いずれも低めに見積もったものである。
 さらに、医者と社会的・教育的な面で類似した地位にある専門家(大学教授や弁護士、裁判官)を比較した30年間にわたる研究がある。 それによると、医者のほぼ半数が離婚を経験した不幸な結婚生活を送り、三分の一以上が覚せい剤や睡眠薬を使用し、約三分の一が精神科を少なくとも10回は受診しなければならないほど重度の精神障害に悩まされていることが判明している。 それの比べて医者以外の専門職の人たちははるかに健康だった。
 医者が麻薬を常用する割合は、一般の人より30倍から100倍も高い。 アメリカ医師会の定例会議で、オレゴン州とアリゾナ州では医者のほぼ2%が薬物乱用で医師免許委員会から懲戒処分を受けていたことが明らかになった。 しかも、アルコール依存症で問題を起こした医者の数はそれよりもずっと多いという。
 アメリカ医師会ですら、国内の医者の1%から1.5%が薬物を乱用していることを認めている。 医者に対して生活改善やリハビリなどの処置が数年間にわたって講じられてきたにもかかわらず、状況を改善することはできなかった。 ただし、これらの数字はいずれも発覚した場合に限定したものである。

 イリノイ州医師会の「心身に異常をきたしている医師を調査する会」の会長を務めるジェームズ・ウェスト医師は、こう語る。
 「イリノイ州の医者の4%が麻薬常習者で、11.5%、つまり9人に1人がアルコール依存症である」
 自殺する医者も多い。 その割合は、自動車と飛行機による事故死や他殺を合わせた数字よりも高く、白人の自殺率の約二倍である。 毎年100人の医者が自殺しているが、これは平均的な規模の医学部の卒業生の数に相当する。 さらに、女医の自殺率は二十五歳以上の女性の自殺率の実に4倍である。

 なぜ医者に不健康な人間が多いのか。

 一部の人はその理由をこう説明する。 まず、簡単に薬物が手の入ること。 次に、ストレスがたまる長時間労働に携わり、肉体的・精神的な限界に追い込まれやすいこと。 第三に、患者や地域から過大な要求を突きつけられていること。

 だが、その程度の理由で医者に不健康な人間が多いことの説明にはならない。 私は他にも理由があると考えている。 
例えば、研究に付きまとう不正と腐敗である。 製薬会社や粉ミルクの会社の営業員が医者に媚を売るために便宜を図っているのを知っている人にとっては驚きではないだろうが、夕食の接待や酒席の準備、研究会や講演会の手配、委託研究費の支給までしてくれるのだ。
 しかし、これは表面的な域を出ない。 多くの医者がこんなに不健康である理由を理解するためには、医学界の心理的・道徳的な風土を分析する必要がある。


医者の世界


 医学界とは、最も原始的な権力闘争が繰り広げられている世界である。 政治の世界では可能性を探るため妥協することが求められる。 だが、医学界に妥協という概念はない。 患者の頚動脈を断つことをためらっていると、医者としての生命がたたれる恐れすらあるのだ。

 世間では利害が対立すれば話し合って最大限の利益を得ようとするが、厳然たる権威主義の医学界では権力闘争で勝利を収めたものだけが、立身出世の階段を駆け上がる仕組みになっている。
 歴史を振り返れば、改革を試みた医者は医学界から追放されてきた。 医者が信念を貫くためには、自分の職業を犠牲にしなければならない。 しかし、そんな危険をあえて犯す医者はほとんどいない。

 医者が妥協を好まないもうひとつの理由は、交際範囲が同業者にほぼ限定されるからだ。 実際、他の職業の人たちと親しくするのは極めてまれである。 この傾向は専門職の中で例外的といえる。 その結果、医者は異なる価値観をもつ人たちと接することがほとんどなく、自分の見解を理解させる必要がめったにない。 世間知らずのまま自分の哲学を構築し、それを診察室という公の場で患者に押し付け、仕事が終われば、自分の見解を指示してくれる同業者とだけ付き合う。 こんなことは、公共性が高く影響力の大きい職業では考えられないことだ。

 もちろん医者は患者を診る。 しかし、患者を人間として診ているのではない。 医療は患者の絶対服従を前提として成立しているから、医者と患者の関係は人間同士の関係と言うより主人と奴隷の関係に近い。 このような心理的風土では、医者が患者と意見を交わして影響を受けることはまずない。 結局、医者の職業人としての態度とは、人間的な要素と価値観が欠如した冷淡な態度で患者に接することである。 医者が同業者以外の人と接するときは、専門職としての態度を崩さず、ほとんど打ち解けない。
 さらに、医者は野心家だから自分を上流階級の人間と考え、その階級の人たちに共感を抱く。 医者は自分たちを真のエリート階級とみなしている。 医者のライフスタイルと専門職としての行動は、独裁者のような考え方を助長するから、政治的にも経済的にも保守的な傾向が強い。


恐るべき医学部教育


 医者には患者を見下ろす習性がある。 どこでこんな悪い癖を覚えたのだろうか。  この点について質問を受けると、以前は「医学部だろう」と答えていたが、いまはそうは思わない。 それよりもっと早い段階だと気付いたからだ。 彼らは医学部に入る前からすでにそれなりの処世術を身につけている。 カンニング、上位の成績を確保する競争、ポジション争い、などなど。 そうした闘争に勝ち残らなければ医学部に入れないと彼らは思い込んでいるのだ。 実際のところ、アメリカの大学は、医学部を規範にし、高校は大学を規範にしている。

 医学部の入学試験と教育方針では、質の低い医者しか育成することができない。 得点を競う通常の試験、医学部の入学試験、高校での試験の重視という入学審査制度では、人とうまくコミュニケーションができず、人間的な交流を嫌うタイプの学生を選抜することになる。 さらに、この関門を通過できるのは、現代医学の聖職者の権威主義的な影響を最も受けやすい学生ばかりである。 彼らは功名心が人一倍強く、権威や慣習に抵抗するだけの意思や正直さは持っていない。
 医学界の権力者は学生に対し、教育を受ける際はもっぱら受身であるよう、そして教授が安心して答えられる質問だけをするよう求めている。 要するに、一回にする質問はひとつだけにしておけ、ということだ。 医学部を生き抜くアドバイスとして、私は学生たちに「教授への質問は一回だけにしなさい。それ以上の質問をしては絶対にいけない」と指導している。
 医学部は、優秀な学生を愚かにし、正直な学生を腐敗させ、健全な学生を病的な人間にするため最大限の工夫をしている。 
優秀な医者の卵を腐らせることは、それほど難しくない。 入試担当者が、気が弱くて権威に服従しやすい学生を選抜しておけば、あとは教授陣が治療や健康とは何の関係もないカリキュラムを組んで学生を指導すればいい。

 アメリカで医学教育に携わる最高の教授陣でさえ、医学教育には「半減期理論」が適用されると言っている。 学生が医学部に在籍する四年間のうち二年間の教育内容が間違っていて、さらにその二年のうち一年が間違っているというのだ。 ただし、学生はどちらの半分が間違っているかわからないから、教わったことを全て覚えなければならない。
 学生は厳しく管理される。 医学部ほど、学生と教官の比率が低い教育現場はあるまい。 医学部の最後の二、三年は教官一人に対し学生が二、三人と言う講座がよくある。 指導教官は学生と身近に接し、しかもその将来を大きく左右する力を握っているから、学生に対する影響力は絶大だ。

 
医者が威張る理由

 
 学生は疲労困憊(ひろうこんぱい)させられ、軟弱な人間にさせられる。 鋳型にはめるために人間の意志を弱くする方法は、とにかく猛勉強をさせて(とくに深夜が有効である)回復の機会を与えないことである。 激しい生存競争に明け暮れさせて、医学部が使う最も効果的な弱体化の手段に抵抗するだけの気力を失わせるのだ。 その弱体化の手段とは、医学生に恐怖心を植え付けることである。

 医者の性格を一言で表現するなら、恐怖心が強いことだ。 そのため、自分の安全をことさら守ろうとするが、その欲求が満たされることは決してない。 医学部時代にさまざまな恐怖心を叩き込まれたからだ。 失敗への恐怖、誤診への恐怖、不正医療への恐怖、正直な仕事を探さなければならないことへの恐怖。
 医学部での学生生活は長時間耐久レースのようなもので、全員が勝ち残れるわけではないから、どの学生も自尊心の欠乏に苦しみ、卒業時にはほぼ全員が不快な気分になっている。

 医者は恐怖心という薬をあおり、医療に必要な治療に対する直感と人間らしい感情を捨てた代償として、傲慢な態度をとることが許される。 そして恐怖心を隠すために、教授と同じように権威を盾にとって行動することを教えられる。 医者が弱者に対しては威張り、権威に対して服従するのは、そういうわけだ。 恐怖心と傲慢というふたつの相反する感情の板ばさみになって葛藤を続けていると、医者が病的集団になるのも不思議ではない。

 医学生が生き残るために駆使する悪知恵を紹介しよう。 生物の試験で使う顕微鏡に別の標本を差し込む。 尿検査のコップに砂糖を入れる。 こうして他の学生を蹴落とそうとしたり、レポートの代筆や定期試験の替え玉受験を依頼したりする。 また、やってもいない実験のデーターを捏造することもある。

 このような学生時代の経験は、医者になってから様々な弊害を生む。 実験データの捏造は、新薬の承認を得るために臨床試験のデーターの改変や捏造をするという不正行為の繋がる。 試験と成績をめぐる恐怖心と疲労は、薬物乱用とアルコール依存症を招く結果となる。 弱者への傲慢な態度は、患者の生命と健康を考慮せず、平然と有害な治療を行う医者を作り出す。

 
医者が相互批判をしない理由

 
 ここで医学界の謎のひとつにぶちあたる。 医学生のときにあれだけ恐怖心と競争心をあおられたにもかかわらず、(あるいは、だからこそ)医者は同僚の無能な仕事振りを司法当局に報告することを極端に嫌う。 たとえば、病院が医者のミスを発見しても、せいぜい辞職を勧告する程度で、当局に報告しようとはしない。 それどころか、もしその医者がよその病院に再就職しようとすると、病院は素晴らしい推薦状を書いてくれるのだ。 

 双子の婦人科医としてかつて名を馳せたマーカス兄弟が麻薬の禁断症状で死亡したと言うニュースは世間を驚かせたが、同僚にとってはさほど驚くようなことではなかった。 亡くなる前年、彼らの麻薬中毒はすでに病院のスタッフには知れ渡っており、病院側は彼らに休暇をとって治療に専念するように指導していた。
 彼らがニューヨーク病院コーネル医療センターに復帰したとき、少しは中毒状態が治っていたかというと、そうではなかった。
しかし、職員に取り押さえられることも州の医師免許委員会に報告されることもなかった。 五月になってはじめて七月一日付けで勤務停止処分になっただけである。 実際、二人の遺体が発見される数日前まで病院で働いていた。

 ニューメキシコ州のある外科医は、手術の際、胆嚢と胆管を取り違え、患者を死なせた。 解剖の結果、医療事故だったことが判明したが、外科医は懲戒処分を免れた。 その後手術の指導を受けることもなく、数ヵ月後にまたしても同じ手術で患者を死なせている。 それでも懲戒処分を免れ、やはり手術の指導もなかった。 三度目の医療事故が発覚してようやく当局のメスが入り、外科医は医師免許を剥奪された。

 医学生のころ競争心をあおられ、足を引っ張り合っていたのも関らず、なぜ医者は同僚の過失の目をつぶるのか。 この謎を解く鍵は、医学部で叩き込まれた基本的な感情である恐怖心と傲慢だ。 医学部では互いを敵視するよう教えられたが、いったん医者になるとその対象は患者に摩り替えられる。 現状を変える研究活動をしないかぎり、同僚の医者ももはや敵ではない。

 医学部で擦り込まれた失敗への恐怖は決して消えない。 医者にとって患者は、医学部時代のテストのような問題を突きつけてくる厄介な存在であり、安定した地位を脅かす最大の不安材料なのだ。 たった一人の医者がミスを犯しただけでも、それが世間に知れてしまうとたちまち患者が優位に立ち、全ての医者の安定した地位が揺らぎだす。
 どのような専門職でも、傲慢の対象はその集団が最も恐れる部外者であって、同業者ではない。 だが、専門職の中でも医者は最も傲慢である。 それが許されるのは現代医学が神聖な宗教であり、医者がその宗教の聖職者として君臨しているからにほかならない。

 
医者は詭弁の達人であり、失敗を棺桶の中に葬り去る

 
 医者は自分の失敗を、成功したことに原因があると主張して責任逃れをすることがある。 例えば、保育器の中の未熟児に失明が異常に多く発生しても、医者は「それはやむをえない代償です」と言う。 
そして「必死の努力で未熟児たちを救うことができましたが、残念ながら全員失明してしまいました。しかし、我々が助けなければ、どの赤ん坊も死んでいたところです」と言い抜ける。

 これと同様の言い訳が糖尿病性網膜症の患者にも使われる。
「失明する患者がこれほど多いのは、われわれが糖尿病患者の命を救い、延命に成功しているからです」と言うのだ。

 医者は「延命治療は一定の成果を収めました」という言い訳をよくする。 この言い訳は、治療成績のよくない病気に使われることが非常に多い。 実際、事故以外で患者が死ぬと、どの医者もこの手で責任逃れをしている。 人びとの健康管理に関して現代医学が役に立っていないことを証明する生物学的な事実に対し、医者は徹底的に無視を決め込む。

 医者は自分の病気でも成功に原因があると主張する。 医学界に精神を病んでいる人間が多いことを指摘されると、医者はこんな答え方をする。
 「医者が精神障害に陥りやすいのは、完全主義者で仕事熱心なあまり、自分の努力が現場で報われないと罪悪感に悩まされるからだ」
 ちなみに、これはアメリカ医師会の会長の発言である。

 医者は「患者の体を犯している病魔と闘っています」と言えば、何をやっても責任は問われない。 聖職者は旗色が悪くなると「悪魔と戦っている」と言って責任逃れをする。 医者もそれと同じ手を使う。
 患者の予後が思わしくないとき、医者は「そろそろ寿命です」と逃げを打っておき「私も人間ですから病魔にはかないません」と言う。 この手を使えば医者は勝てば「英雄」となり、たとえ勝たなくても「敗れた英雄」となる。 医者は決して正体を見破られない。 患者の容態が悪化した本当の原因は、病魔ではなく医者が行った処置なのだ。

 医者は余計な危険を犯すが、誰からも非難されない。 効果のない儀式を有効であるかのように見せかけているからだ。 
もっともらしくするために神聖な医療機器を使い、状況に大げさに対応し、あとでつけこまれないように予防線を張るのがうまい。 例えば骨盤位(逆子)の妊婦が病院に来て、分娩監視装置が胎児の異常を示すと、医者はすかさず「これは命にかかわる状況です」と言う。 そして医者が帝王切開を行う瞬間、本当に命に関る状況になる。
 医者は帝王切開が生物学的に危険であることを知っている。 だが、病院では物事は生物学の原則によって決定されるのではなく、現代医学教の儀式として執り行われる。 いっさいを取り仕切るのは聖職者である医者なのだ。 もし母子が助かれば、医者は英雄となる。 もし母子の一方か両方が命を落とせば、それは「命にかかわる状況」だったのだ。

 医者は絶対に負けない。 負けるのはいつも患者である。 「医者は棺桶の中に失敗を葬り去る」という古い格言は、今でも当てはまる。 

 医者がパイロットにたとえられることがあるが、それは見当違いだ。 飛行機が落ちれば、パイロットは乗客もろとも死ぬ。
 だが、患者が死んでも、医者は死なない。

 
なぜ、医者の言葉はわかりにくいのか

 
 医者は聖職者に特有の言葉で自分を守る。 俗世間の会話と一線を画するために、神聖な言葉を持つ必要がある。 なんといっても、聖職者は宇宙を動かしている力と対話する存在だ。 誰でも理解できるような平易な言葉を使ってはいけない。
 もっとも、医者が使う言葉は、特権階級にありがちな業界用語に過ぎない。 主な目的は、部外者に真実を知らせないためなのだ。 もし人びとが医者の言っていることを全て理解できれば、医者の神聖な力は減少する。

 例えば、病院の不潔な環境のために病気になれば、医者はそれを「院内感染」と診断する。 そうすれば患者は病院に怒りを感じるどころか、そのような高尚な病気にかかったことを光栄に思う。 あまりにも恐れ多くて、怒りを忘れてしまうのだ。

 医者は患者が自分で健康管理することを喜ばない。 そんなことをされたら、医者は患者を意のままに操ることができなくなるからだ。 しかも、患者にいちいち説明させられる羽目になる。

 医者は患者と情報を共有しようとはしない。 そんなことをすれば、神聖な力を患者と共有するjことになるからだ。

 
高度の医療機器で患者を威圧する

 
 医者は自分を聖職者に見せるために、科学技術の粋を集めた高度な医療機器を設置している。 昨今、その普及ぶりは恐ろしいほどだ。 高度な医療機器による効果はいくつかある。
 まず、患者は自分の問題を解決するためにそろえられた一群の医療機器を目のあたりにし、畏敬の念を抱かされる。
「このような機械を使いこなす力を持っているのは、この世でお医者様しかいらっしゃらない」と患者を感激に浸らせるのだ。
 次に「やれることはすべてやりました」という医者の主張が、電気仕掛けの魔術によって説得力を持つようになる。 もしこれが診察器具の入った小さな往診カバンだけだったらどうだろう。 「やることは全てやりました」と言ったところで説得力に欠ける。 だが、診察室にずらっと並べられた高額な医療機器にスイッチを入れると、医者はやれることをすべてやるだけでなく、余計な事までする。

 発達した宗教の特徴は、最大の力が結集された儀式的な対象物が寺院に収容されていることだ。 寺院の格式が高ければ高いほど、多くの機械が揃えられている。 現代医学教の教会(病院)に足を踏み入れると、自分が絶対正しいと主張して機械を操作する聖職者と向き合うことになる。 なにしろ、自分は決して間違いを犯さないと思い込んでいる連中だ。
  これほど危険な存在はない。

 
医者から自分を守る

 
 これまで述べてきたような問題を解決するために、いろいろな改革が導入されてきた。 しかし、私にはどれひとつとして効果があるようには思えない。 たとえば、昨今、リハビリがもてはやされているが、病気の原因を取り除く治療法ではない。 これは現代医学の根本的な問題であり、リハビリはそれを覆い隠すために考案された処置かもしれない。 いずれにせよ、医者は病気の原因を取り除くのではなく、たんに病気の症状を抑えるだけの教育しか受けていない。

 医者の知識を更新する試みが実施されているが、あまり役に立たない。 医学生のとき身につけたのと同じような知識を繰り返し学んでも意味がないからだ。 ところが、医者の卒後の教育の大半は、まさにそれだ。 学生のときと同じ教授陣から指導を受けているのが実情だ。 教授陣の卒後教育は誰が担当してるのだろう。 

 今まで言ってきたように、人びとは自分を医者から守らなければならない。
 そのためには、恐怖心と傲慢という医者の主な心理的特長を常に考慮する必要がある。 作戦としては、医者の傲慢を刺激することなく恐怖心を利用することだ。 そうすれば患者が優位に立つことが出来る。 医者は患者に恐怖心を抱いており、患者に何をされるか不安でしかたがない。 患者としては、その心理を逆手にとればいい。

 医者が弁護士を恐れるには、弁護士が大きな力を持っているからではなく、患者と結束するからだ。 医者が本当に恐れているのは、あくまでも患者である。 医者がミスを犯したら、訴訟を起こすべきだ。 良識ある判断を最も期待できるのは、おそらく裁判所である。 医療問題に詳しく、医者と対決する勇気のある優秀な弁護士を選ぶことが重要だ。
 医者がこの世で嫌悪する場所があるとすれば、被告席である。 そこには患者が弁護士と力をあわせて医者の聖職者としての特権を問いただす場所だ。 最近、医療訴訟が増加していることは高く評価できる。 医者の牙城を切り崩すために立ち上がる人が増えている証だからだ。

 医者から被害を受けたが裁判に訴えるほどではない場合、医者にどの程度の戦いを挑むかは慎重さが必要である。 患者がどう戦うかで結果が決まるからだ。 医者が怒って脅してきたら、怯まずに立ち向かうといい。 本気で立ち向かえば、医者は損得を考えるから、たいてい引き下がる。
 もし医者に立ち向かうなら、最後までやり遂げる覚悟をしなければならない。 抵抗運動をやり遂げる意志の強さと体力に自信がもてるまでは、医者に感ずかれてはいけない。

 医者とはいくら議論をしても、医者の考え方を変えることはできない。 たとえば、抗がん剤に変わる治療を希望しても、医者はそれを聞き入れない。 また、ミルクを勧める医者に母乳栄養を主張しても意味がない。 新聞記事を見せて医者に考え方を変えるように迫っても無駄である。 しっかり準備が整うまで、医者に挑戦してはいけない。 まずは、自分自身でしっかり勉強することだ。

 キリスト教の信者は聖職者が不適格だと判断したらどうするか。 立ち向かうこともあるが、そんなことはめったにない。
たいてい、その教会から去るだけだ。 それが私の答えである。 現代医学教に対する信仰を捨てればいいのだ。
最近、ますます多くの人がそうしている。


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