医者が患者をだますとき


第6章 死の医学

医者が仕事を休むと死亡率が下がる


 現代医学は偶像崇拝の宗教である。 なぜなら、現代医学が神聖なものとしてあがめるのは、人々の生命ではなく、医療機器に依存した儀式だからだ。 現代医学が誇る業績とは、どれだけ多くの人の魂や生命を救ったかではなく、どれだけ多くの新しい医療機器を使い、どれだけ多くの収益を上げたかということである。

 すべての宗教の根源には、現世の状況に対処しようとする人間の試みがすべて行き詰まったときに生きる勇気を与える希望の泉が秘められている。 まさにそれこそが、全てを超越した絶対的な存在、すなわち神にほかならない。 現代医学教の根源にたどり着くには、おびただしい薬の海をわたり、膨大な医療機器の平原を超え、道なき道を進んで行かねばならない。
 なぜ現代医学教が残忍な偶像崇拝であり、なぜ人びとはこの現代医学教を打破しなければならないのか。 
 その理由は、この宗教の神と向き合えばわかるだろう。

  現代医学教の神の正体、それは死に神なのである。

 「医者による大量虐殺」という言葉がある。 クエンティン・ヤング博士が現代医学の一面を表現するために考案した造語で、
医者が組織的に大勢の人間を殺しているという意味だ。
 医者による大量虐殺の一例が、前章で指摘した発展途上国における大勢の乳児の犠牲者である。
 安全にミルクを作る環境にない貧しい人々に人工栄養法を大々的に推奨することは、現地の無防備な人々に対する医者の宣戦布告に等しい。

 現代医学がいかに猛威を振るっているかは、医者がストをしたときにいつも一目瞭然となる。 医者が仕事をしなくなると、人びとが健康で幸せに暮らせるのだ。

 南米のコロンビアの首都ボゴタで医者が五十二日間のストに突入し、救急医療を除いていっさいの診療活動を停止した。
現地の新聞はストの奇妙な影響を報じた。 死亡率が35%も低下したのだ。 国営葬儀協会は「偶然かもしれないが、これは事実である」とコメントした。

 ロサンゼルスで医者がストをしたときには死亡率が18%下がった。 カルフォルニア大学ロサンゼルス校で医療管理学を研究するミルトン・レーマー教授が、17の主要病院を調査したところ、ストの期間中、手術の数が六割も減少したことが明らかになった。 しかし、ストが終わって医療機器が再び稼動すると、死亡率はスト前と同じ水準に戻ったという。

 イスラエルでも同様のことが起こった。 ストが決行されたために、患者の数が一日65,000人から7,000人に減らされた。
エルサレム葬儀協会によると、ストが行われた一ヶ月間で死亡率が半減したという。 イスラエルでこれほど死亡率が下がったのは、さらに二十年前に医者がストライキをしたとき以来だった。

 この現象について説明を求められた医者は
  「救急患者に限定して診察したので、重症患者に労力を集中できたからだ」とこたえた。
 言い換えれば、医者が軽症患者に余計な治療を行わなければ、人命救助に貢献できるということだ。
 医者が救急医療に専念して、不要な医療を慎むのは正しい選択だ。 私はかねてから「医者は永久にストをすべきだ」と主張してきた。 医者が診療活動の九割をやめて救急医療だけに専念すれば、人びとの健康は確実に増進するはずだ。
 医者の労力の大半が、人を死に至らしめる行為に費やされている。 
 現代人はこの由々しき事実から目をそむけてはいけない。

 私は学生たちに皮肉を込めてこう教えてる。
 「医者として成功したいなら、人の死について考える分野を探しなさい。そうすれば輝かしい将来が約束される」と。

 現代医学に関するかぎり、人の死は成長産業である。 医学誌を開けば、避妊、中絶、不妊手術、遺伝子診断、羊水検査、
人口のゼロ成長、尊厳死、生命の質(QOし)、安楽死に関する研究記事が掲載されている。
 現代医学が目指しているのは、生命の管理と終結である。 遺伝子診断や人工妊娠中絶につながる羊水検査の強制については議論の段階だが、議論は実施の前段階だ。
 深く考えもせずこんなことを礼賛している社会は、宗教的狂乱に陥っているとしか言いようがない。
 いずれの医療行為にも生命の尊厳を損なう悪影響があり、化学的な正当性が欠落していることに気付かないように、人びとは情報操作によって騙されているのだ。 どの医療行為も、その本質は死の儀式に他ならない。


生命学を無視する医者たち


 人間は生命を育むように設計されている。 その大半の欲求は生殖と自己保存だが、人間のこうした本能の営みは現代医学の攻撃の対象になっている。 人工妊娠中絶、マスターベーション、同性愛といった子どもを産まない性行為は人口増加を抑制する結果となる。 このような「代替ライフスタイル」が許容され、人類が太古の昔から連綿と営んできた生命をはぐくむ行為が受け入れられなくなってきているのが現状だ。

 受け入れられているのは、現代医学教の死の儀式に繋がるものばかりである。 自宅で子どもを産むことは罪悪とされているが、病院で中絶しても罪悪には該当しない。 しかも、この手術で患者にどれだけ負担がかかるかは考慮されていない。
 現代医学教は、生命を育まない性行為を奨励するだけでなく、生命の軽視も強調する。 これは生命に対する間違った態度であり、人間性が踏みにじられ、良識が欠如している。

 たとえば、現代医学は全ての女性に中絶の権利があると認めているが、中絶は選択の自由という観点から捉えるのではなく、生物学的に中絶よりももっと大切なものがあるという視点から捉えなおすことが大切なのだ。
 ユダヤ教の律法のような伝統のある倫理体系では、母体が危険にさらされているときに限り、母親の生命は胎児の生命に優先するという判断に基づき、中絶が権利としてではなく義務として行われている。 だが、現代医学は中絶を一方的に奨励するばかりで、母親であれ胎児であれ、生命の大切さを考慮しようとはしない。 現代医学が関心を寄せているのは医療技術でしかないのだ。

 現代医学は女性に及ばす被害を顧みず、産児制限を大々的に推進してきた。 だが、これは現代医学が犯した大きな間違いのひとつだった。
 産児制限は、道徳的な罪悪と生物学的な罪悪の違いを最も際立たせる問題である。 産児制限そのものは道徳的には間違ってはいないが、産児制限で行われるいくつかの方法は、女性の生命をおびやかす危険性があるという点で生物学的な間違いを犯している。

 ピルやペッサリー、子宮内リング(IUD)などの避妊法について、医者がそれらに伴うリスクをどの女性にも納得させたうえで本人に選択させるのであれば問題はあまりない。 しかし実際には、これらの処置が女性の体をどれだけ危険にさらすかという点について当の本人には十分な説明がされておらず、選択の余地すら与えられていない。

 医者は生物学を無視する。 つまり、医者は自分が行っている医療行為が患者にとって利益よりも不利益になる可能性があるという事実を徹底的に無視するのだ。 

だからこそ、現代医学の真の目的(死への儀式)が忠実に実行されるのだとしか説明のしようがない。


余命告知の問題


 医学生だったころの私は、医学とは救助と延命を追及する学問だと思っていた。 最近よく言われる「死に方の質」という問題に関する真剣な議論は、かつてはほとんど行われていなかったように記憶している。 当時、人の死を扱うときは希望を持ち続けることが重要とされていたからだ。
 死を否定するというのは、最近ではあまり好ましくないように受け取られがちだが、多くの研究で指摘されているように、がん患者は病気を受容するより、むしろそれを否定して病気に立ち向かってゆくほうが生存率は高くなる。

 この問題について「イギリスの医学雑誌」はこんな興味深い記事を掲載している。
 「生存期間を左右する一因として、患者の心理的要因があることが臨床データーによって裏付けられている。
  最近、ワイズマンとウォーデンの両博士ががん患者の生存率の統計をもとに、平均より長生きした患者と
  早く死んだ患者を比較した。
  その結果、病気が進行したとき、生きる意欲と闘争心をもって積極的な姿勢を維持する患者は平均より長く生き、
  反対に「もう死にたい」と口にしたり簡単に死を受容したりする患者は平均より早く死亡していることがわかった。
  さらに、心臓病患者でうつになりやすい人は、そうでない人に比べて生存率が低いことも複数の研究で明らかにされた。 
  総合的に見ると、希望に満ちた心のもち方は寿命を延ばし、死を受容したり気持ちが沈んだりすると寿命を縮めるようだ」

 このような報告がある一方、最近の医学会議で、ある医者が抗がん剤治療について次のような発言をしていた。
 「救命の方法と新しい治療法の発見には大いに興味があるが、患者がある程度死を受容して安らかに死ぬことが
  出来るように配慮することが大切だ。私はスタッフと共に時間と労力の大部分を割いて末期患者に接しているが、
  その際のカウンセリングはできれば家族のいないところで行うようにしている」

 なぜ、この医者を含めて死の商人たちは「家族のいないところでカウンセリングを行う」というのか。
 私にはその理由がわかる。
 家族の目的は生命を育むことであり、家族の影響があると、患者を死から遠ざけることになるからだ。

 人の死を研究している多くの医者は、患者は死を受容すべきだという前提に立って医療にかかわっている。 つまり、医者は患者を治療して死なせているのだ。 その理由は、患者を治療して生かせておくことができないからである。 医者は「死を否定することは、ある意味で精神的に不健全だ」と言い、さらにこう主張する。
 「もし末期患者が死について語らず、死と直面もせず、あきらめて死のうとしないから、長いあいだ病気で苦しむことになる」
 カウンセリングで死を受容することを患者に説く医者たちは、何か見当違いをしているのではないか。
 「もうこれ以上生きられる見込みはありません」などと言う医者は、患者にとって何の役にも立たない存在である。
 患者に「あなたはもう長くは生きられません」と言って余命を告知することは、患者に呪いをかけているのと同じなのだ。
 患者は医者の言葉を信じ、告知されたとおりに死んでいく。

 気の持ちようが体の治癒能力に影響を与える。 もちろん医者は自然治癒力を認めようとはしないが、楽観的な姿勢を維持することがいかに大切であるかは論をまたない。 医者は余命を告知するよりも、むしろ患者の将来設計を手伝うべきだ。
患者に「死に至る病気なので、医学の力ではあまり効果がない」と言うのと、「あなたの死は避けられない」と言うのとでは意味が全く違ってくる。
 もちろん医者が患者の病気に対して無力であることを認め「現代医学以外の治療や患者自身の自然治癒力を活かせば効果があるかもしれません」と言ってしまえば、患者に対する統制力を失うことになる。 だから、医者としてはそんなことはなかなか言えない。 現代医学の儀式(治療)はますます奏功せず、患者の生命を脅かすようになっている。 
医者のこうした仕事振りがもたらす必然的な結果は、医療ビジネスを営む上で理にかなっている。
 患者が死を人生の一部として受容するようになれば、病院としては死の領域を扱う医療を新たに設けることが出来る。

   それが終末期医療である。


老いは病ではない


 現代医学は、人を癒すよりも死に追いやる方向に進んでいる。 それは人生の最初だけでなく最後にも歴然と現れている。
産まれるときも死ぬときも、生命の力は弱く、死と隣り合わせにあるから、たとえ死んでも「自然死」として処理されやすい。
 人生の終末を迎えると、高齢者は厄介者扱いをされ、死ぬことが許容されるどころか奨励されている。 老人ホームに入れられた高齢者が、その最たる例だ。 そこはあたかも花園のように宣伝されているが、高齢者を世間から隔離して死ぬまで監禁する施設なのだ。 本人もたいていはそれを察している。 自分に向けられた呪いは誰しも気付くものだ。

 医者は高齢者に、人々の邪魔にならない場所に引きこもって死ぬように勧めている。 医者の高齢者に対する態度は、死の判決を下すようなものだ。
 「病気とうまくつきあいなさい」「高齢ですから病気になるのはしかたがありません」などという医者の言い方は、加齢と共に体に問題が生じることは当然だと言っているに等しい。 高齢者もそれを察し、暗示にかかってそのとおりになる。

 しかし、年齢と共に体に生じる問題は当然の帰結ではなく、自然な形で予防したり対処したりすることが出来るのだ。 医者はそれを認めず、緩和ケアと称して致命的な副作用のある薬を大量に投与する。
 現代医学の悪影響を受けていない文化圏では、人びとは年をとっても生活能力を維持し、人生を謳歌している。 それに対し現代医学は、高齢者を無能扱いし、延命するというよりもむしろ、死をより長く苦しいものにしているだけなのだ。


慈悲による殺人


 医学の第一の理念は、昔から変わることなく「患者に害を及ぼすな」である。 これまで見てきたように、現代医学ではこの理念に違反することに意義があると考えられているが、その一方でこの理念は医者にとってたいへん好都合なのだ。 
というのは、この標語が医学の理念であると世間に知らしめることで、医者は患者に害を及ぼす存在ではないという幻想を人々に植え付け、医者が行う数々の残虐行為を覆い隠すことが出来るからである。

 ある勢力が社会を統治するとき最初にする作業は、表現の言い換えである。 人びとが言葉を通じて物事をどう捉えるかを操作すれば、人びとがそれにどう対処するかを操作できるのだ。
 例えば人口増加を「人口爆発」と言い換えれば新しい生命の誕生が不吉で有害と思わせることが出来る。
 妊娠中絶も「家族計画」と言い換えると、命にかかわらない医療処置のように思えてくる。
 かつて「慈悲殺」という言葉が使われていたが、いくら「慈悲」と付け加えても最後に響きがあまりにも露骨なので「安楽死」と言い換えられた。 表現を言い換えて現実を覆い隠す最悪の例は「尊厳死」だ。 「尊厳」さえ保たれていれば、どんな状況における死もいいとされている。 しかし皮肉なことに、この言葉が最もよく使われる状況では「電源を切る」という行為が末期患者の尊厳を踏みにじっている。

 私からすると、人を死に至らしめるこれらの医療行為は、どれをとってもナチスを彷彿させるおぞましいものばかりである。
第二次世界大戦前のドイツの医学界も道を踏み外して同様の行為を行っていた。 当時のドイツの医者たちは、重度の知的障害児たちや身体障害児を「役に立たない人間」として処分していた。 中絶や安楽死が合法的に行われ、さらに高齢者の「尊厳死」も推進されていた。 その後、ジプシー(ロマ民族)虐殺、反ナチス分子の処分、そしてユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)へと繋がっていく。 ナチスも聖戦と言う美名のもとに戦っていた。

 生命に対する現代医学の戦いが激化するにつれて、病院はこの戦いの被害者である末期患者を裁ききれなくなり、「死の収容所」を建設する必要に迫られた。 ここでも耳に心地よい言葉が現実を覆い隠すために使われる。 ホスピスである。
この言葉は「(旅人を快く受け入れる)安息所」と言う意味なのだ。

 死のカウンセラーが病院に配属され、医療現場の主力商品を受け入れるよう患者を説得している。 もちろんこれは、巧みな市場戦略がなければできない。 何を売るときでも、欲求を掻き立て、それを受け入れる素地を作らなければならない。
 現代医学の主力商品は死だから、患者には死期が迫っているという考えを受け入れるよう働きかけなければならない。
人間は生きる本能を弱められると、非人間的で危険な処置でも甘んじて受け入れるようになる。 こうしてついに末期患者は薬漬けにされ、半死状態の苦難しか自分には残されていないと観念し、死の商人によるカウンセリングを受け入れる。

 いよいよ最後のときが近ずくと、現代医学教は患者を最大の神秘にいざなうべく全力を傾ける。 イエスの復活を祝うミサがキリスト教の最高の儀式であるように、集中治療室での死は現代医学教の最高の儀式である。 それに至るまでのいくつかの神聖な儀式で、患者は家族から隔離される。 これはまさに、古代の邪教が聖職者の思惑どおりに儀式を進めるためいけにえを家族から隔離したのと同じ手法だ。
 患者は家族の手を握り締める代わりに最新の医療機器につながれる。 いよいよ死の瞬間が訪れたとき、患者は最も神聖な場所で死に神のもとに送られる。

 
現代医学の興亡

 
 新しい宗教が古い宗教の権威をおとしめるとき、人間の抱える諸問題の責任は古い宗教の神にあると主張する。 現代医学は病気の原因をウイルスにあると説く。 そして「そのウイルスを創造したのは古い神だ。病気の原因は人びとにあるのではなく、ウイルス、病原菌、細胞の突然変異、遺伝にある。 それらはすべて、古い神の責任だ」こんな調子で生命の神がおとしめられてきた。
 現代医学は古い神の拘束から人びとを解放し、ウイルス、病原菌、細胞の突然変異、遺伝といった存在に対抗する新しい神を人々に教えた。

 しかし幸いなことに、現代医学が攻撃する対象は、悠久の歴史に裏打ちされている。 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教のように長く受け継がれてきた世界の主な宗教は、似かよった論理体系を持っている。 大家族と高齢者に対して一定の敬意を払っているし、未熟児、障害児、高齢者のような社会的弱者をいたわり、子孫を増やす目的でない性行為を戒めてきた。
 もちろんこれらの伝統的な宗教にも相違点はあるが、人を死に至らしめる現代医学教とくらべると、その違いはたかが知れている。 古代ギリシャとローマの宗教では、人口抑制、中絶、口減らしのための子殺し、老人殺しが盛んに行われていた。
しかも、それは生命の質という美学のもとに行われいたのだ。
 しかし、生命の質は、単純化すれば生命の長さと密接な関係がある。 私が長生きしたいと思うのは、多くの孫に囲まれて生きていきたいからだ。 私にとって生命の質は、どれだけ多くの孫の成長を見届けるかにかかっている。 私はできるだけ長生きをして、死ぬその日まで充実した人生を送りたい。 そうすれば、生命の質はおのずと高まるだろう。

 私は自分の生命の質について、医者やその道の専門家たちのカウンセリングを受けたいとは思わない。 
 人びとが本当に必要としているのは、生命に敬意を払い、それを守るために知恵と技能を駆使する医者なのだ
 しかし残念ながら、そのような医者を見つけるのは至難のわざかもしれない。


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