医者が患者をだますとき


第4章 病院にいると病気になる

病院嫌いは人間の本性


 病院はまるで戦場である。 近づかないほうが身のためだ。 もし脚を踏み入れてしまったら、一人でも多くの人を救出し、一刻も早く戦場から脱出すべきだ。
 高い入院費を考えれば、そのお金で世界のどんな保養地にでも行って優雅に過ごすことが出来る。 緊急治療が必要な場合を除けば、貴重な時間とお金を転地療養に費やしたほうがはるかに健康的だ。

 なぜならば、病院は現代医学教の教会であり、この世で最も危険な場所のひとつだからである。

 人間が家を構えて住み着くようになれば、人間があがめる神にも住む場所が必要になる。 こうして神を祭る教会や寺院が建設されるようになり、その宗教に特有の啓示もそこで行われる。

 病院とは、現代医学教の神の予言の場である。 この宗教を信仰していない国々から移民をしてきた人たち、とくに高齢者は
「病院なんかに行ったら死んでしまう」と言う。 彼らには神の声が聞こえているのだろう。

 子どもは豊かな感性で私たちに訴えかける。
 「病院に行くのは怖いからいやだ」と。 
 医者を恐れる子どもの心理から学びとるものもあるはずだ。 もちろん病院の何がそんなに怖いのかときいても、子どもはそれをきちんと説明することはできない。
 しかし、それは大人も同じだ。 たいていの場合、大人ですら、病院の何に恐怖を感じるのかを具体的に説明することができない。 しかも大人は自分が怖がっている事実を認めたがらない。

 こうした世間のあいまいな態度につけこんで、医者は「怖いことは何もありません」と言って人びとを招き寄せる。
 だが、病院には怖いことがたくさん待ち受けている。

 現代医学教の教会に住んでいる神は、死に神なのだ。


病原菌だらけの病院の清潔という落とし穴


 病院には、よそではまず見当たらない細菌が無数にひしめいている。 病院がたいへん不衛生な場所だからということだけでなく、現代医学が「清めの儀式」に病的なまでに固執した結果でもある。 逆説のようだが、これは事実なのだ。
 言うまでもなく、病院は清潔であるべきところだが、実際にはお世辞にもそうとは言えない。 清掃員はいつも足りず、一人一人に負担がかかりすぎている。 人の目に付く場所だけが適当に掃除されているだけで、隅や奥にはチリやほこりがいっぱいたまっている。 しかも、病院のチリやほこりの多くは他の場所ではあまり見当たらないものが含まれている。

 病院で日常的に発生する廃棄物にはこんなものがある。

 まず、医療廃棄物:手術や解剖で摘出された胎盤や臓器、切断された手足、実験動物の死骸、使い捨てのオムツや詰め物、             カテーテル容器、マスク、消毒綿、衛生ナプキン、ギプス、注射器、包帯、ガーゼ。
 次に、生活廃棄物:調理場で捨てられる肉、魚、野菜、残飯、石鹸、ごみ、体の垢、痰、唾液。

 ひとつの場所からこれだけ多くの種類の廃棄物が大量に出るところは、病院以外にあるまい。 これらを集めて捨てに行くのは、病室、手術室、実験室、死体置き場、調理場のゴミ処理の全てを担当している同じ清掃員である。

 ワシントンの公立病院で、患者を運ぶための担架が解剖用遺体の運搬にも使われていた事が明らかになった。 
それだけでもひどい話だが、担架にはいろいろな残りかすが不着したままだった。 救急処置室や床、死体置き場からは臓器や排泄物が出てきた。 ほこりのたまっていた病室では注射器のほかに排泄物のこびりついた衣服が見つかった。 
さらに、シャワー室もかなり汚れていた。
 長年、病院勤務をしていた者から見ればこの実態は驚くことではなく、どの病院も似たり寄ったりである。 さらにその状況を悪化させているのは、そうしたほこりや、ばい菌をエアコンが病院中にまき散らしていることだ。

 病院は普通の建物より多くの配水管が通っている。 熱湯と冷水のほかに、冷却水と蒸留水のための真空装置、吸入装置、
酸素吸入装置、冷却装置、冷却水再利用装置、排水装置、下水設備、洗浄装置、防火装置(故障していることがある)などが壁や床を通して設置されている。 接続ミスの事故も発生しやすいだけでなく、機器が多すぎて建築基準法に違反している場合などは、さらに危険である。

 病院には耐性菌がうごめいている。 抗生物質の過剰投与が原因であることは第二章でも述べたとおりだが、抗生物質をスープのように垂れ流し状態で使う現代の病院ほど、耐性菌の繁殖に理想的な環境はあるまい。  細菌のなかには抗生物質をエサにするほど適応性を備えたものがいるほどだ。 これこそ、清めの儀式に病的なまでに固執した現代医学の皮肉な結果にほかならない。

 病院で日常的に細菌と接触している職員に被害はないが、患者こそいい迷惑だ。 患者が被害にみまわれるのは、清掃員や看護師がベットの準備と食事の支度をするとき、衣服の後片付けをするとき、そして、なにより患者にじかに触れるときである。

 病院には清掃員や看護師よりもさらに悪質な感染源が存在する。 医者である。 手を洗うのは手術前だけ、それも儀式の一環としてで、それ以外ほとんど手を洗おうとしない。
 医者は舌圧子(ぜつあつし)や注射器を無造作に扱い、患者の体に平気で触れる。 ところが、自分だけは特別に清潔だと考えているらしく、診察の合間も手を洗おうとしないことが多い。 キャップやマスク、ゴム手袋に厚い信頼を寄せているが、それらはどれをとっても清潔だとはいえないしろものだ。 マスクは10分も使えば汚れて細菌の温床になるものだし、ゴム手袋はいつも汚れている。

 私が新生児保育室に入るときはその朝に身に着けたばかりのクリーニング済みのスーツで入るようにしているが、どの看護師も私を見つけると「白衣を着用してください」と注意してくる。 そんな時私は「このスーツはお気に召さないようだね」と切り返すことにしている。 看護師のこの反応は、白衣という祭服を重んじるあまり、現実が見えなくなっている証しだ。
 彼女たちが私に着せようとする白衣が、クリーニングしたてのスーツより清潔だという保証はどこにもない。 現実はむしろ逆で、白衣は棚に置かれたままだし、洗濯がきちんとされているかどうかも疑わしい。 洗うときには、汚れたシーツや枕カバー、手術室のリネンなどと一緒くたに洗濯機の放り込まれてる。 白いからといって白衣が清潔だとは限らない。 ベットも同様で、シーツと枕カバーは洗濯されていても、マットレスと枕はそのままだ。


院内感染が生み出すもの


 総合的に見て、院内感染は少なくとも20人に1人の確率で発生している。 その半数は、カテーテルや点滴装置などの汚染された医療器具によるものだ。
 毎年、院内感染による死者は約15000人にのぼっている。 だが、副作用で死亡したときと同様、重症患者が院内感染で死亡したときも、病院の職員が統計を改ざんすることがよくある。
 病院でどんな危険にさらされるかは、患者の病状しだいである。 手術で入院する場合、手術室で体を切り刻まれるという危険に加えて、術後は体力が落ちているので感染症への抵抗力が低下しやすい。 火傷やケガで通院する場合も、体力が落ちているので感染症にかかりやすい。

 院内感染の確率が20人に一人というのは、感染症の可能性を最小限に見積もった場合である。 
伝染病が病院内でまたたく間に広がって、職員も患者も全員避難しなければならなかった例も何度か起きている。 そんなときは、小児病棟と新生児室が最も被害を受けやすい。 病院の秘密を明かすと、院内感染の被害者が最も多いのが新生児保育室なのだ。 新生児は病原菌に対する免疫をまだ確保していない。 とくに免疫を与えられる母乳で育てられていない赤ん坊が危険にさらされやすい。

 細菌が繁殖しているのが病院であるにもかかわらず、伝染病を発生させた責任が病院やその職員にあると指摘された例はほとんどない。 責任はいつも見舞い客に押し付けられるのだ。 その結果、伝染病が起きると面会制限が行われる。 
だが、見舞い客を病院の外に出すだけでは問題は半分しか解決されない。 全てを解決するには、患者も外に出さなくてはならないからだ。 こうして救出された患者は、ようやく元気を取り戻していく。


薬害事件は日常茶飯事


 病院を汚染しているのは病原菌だけではない。 病院には医者が好む危険な医薬品がずらりとそろっている。 豊富な品揃えを前にして、医者に使うなというのはこくな話だろう。

 医者の願望は行動となって現れる。 アメリカでは、平均12種もの薬が入院患者に投与され、薬害によって障害者になったり死亡したりする事故が起きている。 そこまでの重大事には至らなくても、患者の健康を害する危険な医薬品はいくらでもある。薬を使わない医者もごくまれにいるが、ほとんどの医者は薬を処方するのが大好きときている。 おまけに、実験室で使われる毒性の強い溶剤や可燃性化学物質、放射性廃棄物が入院患者の安全をおびやかしている。


患者の取り違え


 もし病院が見かけどおり効率よく運営されているのなら、こうした危険に直面している患者も多少は安心して入院していられるだろう。 だが、病院は非効率の見本とまで言うべきところなのだ。 単純ミスがあまりにも多く、選択肢がさらに多い場合に起こるミスのことを考えると、恐ろしいものがある。

 病院では混乱は日常茶飯事だ。 患者の足を間違えて手術した、薬を間違えて患者に投与した、食事療法の患者に別の食事を出した、などなど。

 病院では取り違えがひんぱんに発生する。 取り違えられるのはものとは限らない。 患者の取り違えもよくある。 赤ん坊が取り違えられることもある。 産科病棟に勤務した事のある医者なら、看護師が赤ん坊を間違えて、母親に指摘される光景を何度も目撃しているはずだ。 新生児保育室には20人から30人の赤ん坊がいる。 赤ん坊の脚の指紋をとっても意味がないことを医者なら誰でも知っているし、腕輪をはめてもすぐにはずれてしまう。 病院の職員にとって、赤ん坊を識別することは至難の業なのである。 病院出産を避けて自宅出産を勧める理由のひとつがこれなのだ。 病院で出産すると、退院するときに他人の赤ん坊を抱いて帰るかもしれないのだ。
 
 病院で行方不明になった患者までいる。 エレベーターやあまり使われていないトイレで患者の遺体が発見されたこともある。
また、シカゴ大学付属病院では赤ん坊が盗まれたこともある。

 
病院は事故多発現場


 ペンシルベニア州郊外のある病院では、救急処置室にガス管を設置する際に、工事を請け負った業者が酸素と亜酸化窒素のラベルを貼り間違えた。 ミスが発見されるまでの半年間、外科用麻酔として使われる亜酸化窒素を供給されるべき患者は酸素を、酸素を供給されるべき患者は亜酸化窒素を吸わされていたのだ。
 病院は5人の死者については事実を認めたものの「ミスがあってから半年間に当病院で治療を受けた35人の患者については、そのミスが原因で死亡したのではない」と発表した。 そしてその理由について「患者のうち何人かは病院に搬入された時点ですでに死亡していた。残りの患者については、たとえ酸素を吸入していたとしても、すでに手遅れだった」と釈明した。

 医療ミスを隠蔽(いんぺい)するときの医者の常套手段(じょうとうしゅだん)だと気付いた人は鋭い感をしている。

 医者が医療機器に依存するにつれて、病院の中は電気器具とコードでいっぱいになり、感電の危険性が電気代に比例し高くなっている。 不衛生な環境を指摘された前出のワシントン公立病院では、三人の患者だけでなく医者と看護師がCCUで欠陥のある電気器具に感電し、重度の火傷をおったことがある。
 この種の事故は決して珍しくない。 設備管理を担当する職員が削減された結果、病院に特有の複雑な配線を扱える人物がいなくなったからだ。 今後事故はますます増えていくことが危惧される。

 
栄養失調の患者たち


 入院中に医薬品、病原菌、手術、化学薬品、事故で命を落とさなくても、栄養失調で死ぬ危険性もある。
 ボストンのある公立病院で、病院食の実態を調べる初の本格的調査が行われた。 対象となったのは、この病院で手術を受けた全ての入院患者である。 調査項目はタンパク質とカロリーで、最低基準を満たしているかどうかが調べられた。 ただし、ビタミンとミネラルについては調査項目に入っていなかった。
 調査の結果、半数の患者がタンパク質とカロリーの摂取不足で、さらにその半数が極度の栄養失調に陥っていたことがわかった。 栄養失調が原因で患者の回復が遅れ、入院が必要以上の長引いていた可能性がある。 栄養のある食べ物を十分に与えられていなかったのだから、ビタミンとミネラルの摂取も同程度であったことは容易に想像できる。

 この調査結果は、この病院だけの問題ではない。 それ以後に行われた多くの調査で、米英の病院の入院患者の四分の一から半数が栄養失調であることが明らかになっている。  ボストンの公立病院の実態調査を行ったジョージ・ブラックバーン博士は「高齢者が病院で死亡する一因として栄養失調が挙げられる」と断言している。 調査で明らかになった入院患者の栄養状態を考えると、この指摘はそんなに驚くようなものではない。 栄養失調は患者の体調を最悪の状態にし、闘病生活をより過酷にする。 これに病院の中のさまざまな危険と入院によるストレスが加われば、病状は確実に悪化する。

 こうした被害規模の実態を正確に把握することはできない。 薬の副作用や医療事故で患者が死亡したときと同様、医者がカルテを改ざんするからだ。 栄養失調が原因で何人の患者が死亡したかはわからない。 わかっているのは、多くの患者が栄養失調に陥っていること、栄養失調が患者を死に至らしめるおそれがあること、実際に多くの患者が栄養失調のため入院中に死亡していることである。

 なぜ、入院患者は栄養失調に陥るのだろうか。 たしかに病院食の多くは劣悪だが、とにかく食べればタンパク質やカロリーの摂取不足は防げるはずだ。 問題は、入院患者が食べないことにある。 食事環境に配慮する人がいないのが原因だ。

 まず、患者の食欲がわかない。 トレーがベッドまで運ばれてくるが、患者は手をつけようとしない。 たとえ手をつけようとしても、食事時間が決まっていて、職員にせきたてられては満足に食事など出来るものではない。 しかも患者は、薬、浣腸、検査、治療という病院のフルコースを毎日嫌な気分で賞味させられている。

 病院では多種多様な処置が行われ、入院患者はますます食欲を失う。 病院でこうむる精神的打撃は、肉体的打撃と同様、患者を死に至らしめるほど深刻なのだ。

 
病院はこの世で最悪な場所と入院不要説


 患者は病院に足を踏み入れた瞬間から、そこを出る瞬間まで、生ける屍のような気持ちにさせられる。 病院の環境と待遇によって心の支えをなくし、希望を失い、暗い思いで過ごしているうちに心身ともに衰弱していくからだ。 こんな状況で楽天的な気持ちでいられる人がはたしているいるだろうか。 
 しかも、苦痛にあえぎながら死んでいく患者たちの陰気な顔つきと、それを見つめる患者たちの陰気な顔つきを目の当たりにしなければならない。 また、職員が非人間的な対応をしてる姿にも直面する。

 受付で入院手続きをすめせると、患者は人格を持った人間であることをやめさせられ、検査値の寄せ集めとして扱われる。 
いままで暮らしてきた世界を後にして、本来の自分を見失う。 服を脱いで所持品と一緒に衣装棚にしまいこむとき、これまでの生活の思いでもどこかにしまわなければならない。 おまけに、家族や親戚との面会時間は制限される。
 こうした精神的打撃を受けると、患者は自分で健康を管理するという気持ちを完全に失う。 病院は患者に孤立感、疎外感、喪失感、不安感を募らせ、あらゆる要求にしたがわせる。 患者は精神的に参っていき、やがて模範的な患者となる準備が整うのである。

 とりわけ、子どもと高齢者はこの呪いにかかりやすい。 子どもの場合、親に見捨てられたというショックと不安のために激しい感情の起伏に悩まされる。 これに手術とか何か怖いことをされるのではないかという心配が加わる。 入院してたったひと晩かふた晩、親とはなれて過ごすだけで退行現象を起こし、トイレトレーニングや言葉を忘れてしまうことがあるが、これは子どもの責任ではない。
 三歳から六歳くらいの子どもが心理的な混乱期にあることは、どの医者も心得ておくべきだ。 この時期の子どもには自分の身に起きていることがほとんど理解できない。 そんな子どもを病院に預けて自分だけ帰ってしまうのは残酷である。 子どもが一人で耐えるには、病院の環境はあまりにも苛酷なのだ。

 数年前、私は「子どもがヘルニアの手術を受ける際何を想像するか?」という論文で子どもたちに質問をして、「自分の身にこれから何が起こると思っているか?」を調べたのだ。 すると、ほとんどの子どもが「性器に何かされるように思う」と答えた。 
「自分の体のどこを手術されると思うか?」と聞くと、手で性器を守るしぐさをした子どもが何人かいた。 そうした答えや動作に基づいて出した論文の結論で「医者は事前に子どもに十分なカウンセリングを行い、手術についてもよく説明しておくべきだ」と書いた。
 しかし今ではそんなことをしても効果がないと思っている。 子どもにほんとに必要なのは、入院中ずっと両親が付き添うことを医者が保証することだからだ。 当時の私はそれに気づいていなかった。

 大人、とくに高齢者も入院によって苦しむ。 ディビッド・グリーン医師は「高齢者にとって、病院はこの世で最悪の場所である」と言った。 私もその意見に同感だが「全ての人にとって、病院はこの世で最悪の場所である」と言ったほうが適切だと思う。

 入院患者が受けるストレスは、大人ですら耐えがたい。 大人は子どもがそんなストレスに耐えて入院生活を乗り切れるとでも思っているのだろうか。 自分が入院すると手のつけられない子どものようになるのに、子どもが冷静に振る舞うことを期待し、別離と恐怖をいとも簡単に克服できると思っているのは皮肉な話だ。 

 患者が病院で受ける待遇は、人間の尊厳を無視している。 患者は服を脱いで病院のお仕着せをまとい、医者、看護師、技師による検査に耐え、ほとんどの時間をベッドで横になって過ごすだけである。 自由に動き回ることは許されず、だされた食べ物を口にしなければならない。 ただし、食欲があればの話しである。 さらに、見ず知らずの人たちと一緒に寝泊りしなければならない。 しかもその人たちは一人残らず病人である。

 これまで長年医療現場で働いてきて、
       患者が自尊心を傷つけられる経験をすることによって、健康を取り戻すのを見たためしがない

 伝染病が院内で広まると、全ての患者を病院から避難させ、帰宅させるか転院させなくてはならない。 こういう事態が発生すると、いつも同じことに気が付く。 転院の必要がある重症の患者がほとんどいないのだ。 多くの患者を一時退院させたが、その患者には何の問題も起きなかった。 
 医者になったころ、どの程度の患者に入院が必要なのかを実験して調査した。 担当していた病棟のベッド数は28床で入院患者は24人であった。 ところが、どの患者も入院の必要性が認められないのだ。
 私は入院許可の担当者でもあったので、来院した患者の入院必要判定をしていたが、患者が自宅で治療を受けられるように手配した。 例えば、、患者が来院の際のタクシー代を病院側が支払ったり、患者が自宅で使用する器具を技術者が軽トラックを使って調整に出かけたりするといったことだ。
 そうしているうちに入院患者が3、4人までに減った。 入院がいかに不要かを証明してみせたと満足したが、結局、最も不要なのは自分であることに気づいた。 看護師たちからは「患者がいなくなるとすることがなくなり、他の病棟に移動させられる」と苦情が寄せられ、研修医からは「研究対象が不足して困っている」と文句をいわれたからだ。

 こうしてみてみると、病院が必要なのは医者や看護師の収入源と、研修医が一人前になるための研究材料、実験材料としての患者の確保であろう。

 
患者の権利は守られているか


 病院が猛烈な勢いで増えたのは、患者の利益を守るためではなく、医者にとってそのほうが好都合だからである。
病院の起源は「救貧院(きゅうひんいん)」と呼ばれる施設で、医療費を払えない貧しい人たちを収容するために設置された。
ところが、医者はしばらくすると、病人を一箇所に集め、そこにさまざまな医療機器を設置して面倒を見たほうが手っ取り早いと考えるようになった。

 医療が人間味を失い機械に依存するにつれて、大勢の患者を病院で管理するほうが医者にとってますます好都合になった。入院患者より外来患者を治療するほうが医者にはより高度な頭脳と技術が要求されるが、才能や熟慮は医者には無縁の資質である。 そんなわけで、病院が乱立する時代を迎えたのだ。

 現代医学では、病院の危険性を説明する必要に迫られない。 病院は営利目的のために自己認可している組織なのだ。 
病院が事業を継続すべきかどうかを決定する理事会や委員会は、病院を運営している人たちで構成されている。 これは一般の企業経営となんら変わりなく、儲かればやる、儲からなければやめるとただそれだけのことなのだ。 国が介入してそれを是正しようとしても、この制度は既得権益によって守られているから、かなり悪質な病院でも存続し、全ての病院にはびこる悪い慣習を改革することができない。

 以前、保健福祉省がメディケア(高齢者医療保険制度)で危険性を指摘された105箇所の病院を調査したところ、69箇所の病院で、耐火性、薬物記録、医師の数、看護師の数、食事指導、カルテ、医学文献の基準を満たしていなかった。 だが、どの病院も病院認可共同委員会の審査ですでに合格していたため、保険福祉省の調査結果が公表されても、同委員会は不適格な病院の認可を取り消そうとしなかった。
 世間が病院に改善を求め抗議しても、実施される改革はほとんど効果がない。 改革の大半は書面によるものか、経営陣が極秘会議で決めたものだからだ。 そもそも病院が権限を放棄するはずがない。

 患者の苦情を病院に報告するオンブズマンを設置する改革は、医療訴訟を阻止するためのものでしかない。 オンブズマンが設置されれば、患者は自分たちの権利が守られると錯覚を抱く。 それが病院の陽動作戦である。

 アメリカ病院協会は「患者の権利章典」を採択している。
 その中で明記されている患者の12章の権利を要約すると次のとおりである。

  ● 思いやりと敬意に基づくケアを受ける権利
  ● 自分の健康状態を伝えてもらう権利
  ● インフォームド・コンセントに基づいて医者から説明を受ける権利
  ● 法的に許容される範囲で治療を拒否する権利
  ● 自分の受ける治療のプライバシーを求める権利
  ● ケアに関する通信や記録の守秘を求める権利
  ● 自分が要求するサービスに病院が正当な対応をするよう求める権利
  ● 自分のケアに関して保健施設や教育機関と連絡がとれているかどうかを知る権利
  ● 自分が人体実験に使用されていることを知る権利と拒否する権利
  ● 診療、予後などの一連のケアを求める権利
  ● 診療請求書を点検し、説明を受ける権利
  ● 自分の行動に関する病院の規則と規制を知る権利

 アメリカ病院協会は患者の権利章典の採択と同時に、協会に加盟している全ての病院にそれを通知した。 だが、通知を受けてから二年以上経過しても、その内容を患者に知らせている病院はごくわずかしかない。

 医学界がこのような改革を実行するとは到底思えない。 そもそも、患者になんらかの権利があるという考え方が、医学界の方針と相容れないからだ。 もし、患者の権利を厳密に守るなら、どの病院も閉鎖せざるをえなくなるのである。
 患者は現状のように長く入院する必要がない。 実際、多くの研究で、ほとんどの長期入院が不要であることが明らかになっている。 たとえば、出産の場合、五日どころか三日、いや半日でも長すぎるくらいだ。 たいていの場合、不要な長期入院は母子に害を及ぼす恐れがある。

 医学文献によると、心臓病の患者にとって有益な入院期間はますます短くなっている。 もちろん医者は、少なくとも一ヶ月は入院が必要だと主張するだろうが、入院期間は三週間よりは二週間、あるいは一週間でもいいし、自宅で治療を受けて自由に歩いたほうが健康にいいことが明らかになっている。

 アメリカ病院協会ですらベッド数が多すぎることを認めている。 ということは、病院があまりにも多すぎるということである。

 当然アメリカ病院協会はそのあたりの事情を世間には知られないように努力している。 病院活動委員会は病院の財政的支援を受けて運営されている民間組織で、全米の病院から収集された情報がコンピューターによって管理されている。 その中には、治療法による死亡率の比較、院内感染、医療事故をはじめ、一般の人たちにとっては戦慄すべきデーターがすべて含まれている。
 試しに閲覧を申し出るといい。 おそらく、受付で敵意をむき出しにして拒否されるだろう。 まるで国家機密のような扱いだが、それもそのはずである。 情報が機密扱いされている理由について、同委員会と全米病院協会のスポークスマンは「この情報が世間に知れ渡ると、病院の安全性が正確に理解されず、病院の改善に支障をきたすおそれがある」と説明する。

 だが、それは建前である。
「この情報が世間に知れ渡ると、病院の危険性が正確に理解されて、病院の存続に支障をきたす恐れがある」
というのが本当のことなのだ。

 
病院からわが身を守るため


 現代医学の治療は患者に利益があるどころか、あまりにも有害で患者を死に至らしめる恐れすらある。
 また、現代医学の意図はあまりにも腐敗している。 病院が面会時間の規制を緩和したのは、患者が家族と長く過ごせるように配慮したからではない。 小児科の患者が激減してベッドの空きが目立ってきたからである。 子どもを病院に呼び戻し、ベッドの稼働率を高めるためなら、病院はどんな方策でも実施する。 子どもの両親や兄弟姉妹はいつでも都合のいい時間に面会に来ることができるようになったし、犬や猫まで連れてきてもいいことになった。

 産科病棟も妊婦に敬遠され頭を抱えている。 病院出産よりも自宅出産が好まれるようになってきたからだ。 そこで分娩室に夫や母親、姉妹、ボーイフレンドが立ち会うことが許されるようになった。 収益が上がるなら、誰が立ち会ってもいいのだ。

 医学界は「病院に来れば救われます」と喧伝(けんでん)して人々を呼び込もうとする。 だが病院にいっても救われるはずがない。 病院は健康とは何の関係もない場所だからだ。 病院には健康に役立つ設備はどこにも見当たらない。 病院食は最悪のファーストフードと変わらないし、運動設備があるわけでもない。 健康維持、健康増進に役立つ人間的な要素は排除されているために、家族や友人とのふれあいは乏しく自己喪失感に襲われやすい。

 人は病院に足を踏み入れた瞬間に屈服する。 そして「すべてお医者様にお任せします」と言わんばかりの態度をとる。

 入院費は医療費の中で最大の要素である。 医療費は猛烈な勢いで防衛費を追い抜きつつあり、やがて国家予算の最大の支出となるであろう。 医療費が防衛費を超えたとき、誰も医学界に逆らうことができなくなる。 国家予算の最大の支出の対象は、それが何であれ、やがて強大な権力を駆使して国の命運を握るようになるからだ。 そのとき現代医学の夢は実現する。
国全体が病院となり、全国民が患者としてそこに収容されることになる。

 病院から身を守るためにすべき最初のことは、不要な入院を避ける決意をすることだ。 ほとんどの患者は医者の指示に従って入院しているのだから、医者の指示を無視すればいい。 また、絶対に必要である場合を除いて薬と手術を拒否することも大切だ。
  (第二章と第三章を参考に)

 入院患者には、外来患者に行われない治療がたくさんある。 ここでも患者はよく勉強し、どんな治療ができてどんな治療ができないのか、医者よりも詳しく知っておくべきだ。

 出産を例にとりあげた場合。
 健康な女性なら出産の95%以上は自宅で済ませることが出来るし、またそうすべきである。
 しかし医者は若い妊婦と夫をおどして分娩室で出産させようと言いくるめる。
 よく使われるのは合併症の危険性を大げさに指摘することだが、それは統計のトリックか産科医療に起因する合併症のいずれかである。
 病院は自宅出産運動の高まりを阻止できないため、ますます多くの分娩室を設置するようになった。 しかし、だまされてはいけない。 たとえ立派なホテルのように見えても、そこは分娩室である。 いったん病院に入った以上、患者は囚われの身だ。

 私はこんな想像をする。 ある若い夫婦が高級ベッドとテレビの設置された豪華な分娩室の入る。 医者は優しそうな微笑を浮かべて行動する。 しかし、いったん産婦をベッドに縛り付けると、医者はボタンを押し、壁が動いて家具が消え、部屋が手術室に一変する。 たちまちのうちに、産婦はまぶしい照明の下に置かれ、医者に腹部を切り裂かれる。
 これはそれほど非現実的なことではない。 分娩室は手術室とそれほど隔たりがあるわけではなく、分娩台を手術台と取り替えることは可能だからだ。 産婦は医者の縄張りにいる限り、医者の規則に従うことになる。

 それに対し自宅出産なら、医者の思うようにはならない。
 病院の分娩室で産めるなら、自宅の寝室でも産めるということを、事実として指摘しておく。

 医者は患者を不必要に入院させたがる傾向がある。 医療費の中で入院費が最大の収入源であり利益をもたらすからだ。
 この危険から身を守るには、薬や手術を避けるときと同じ作戦で対処するといい。 自分でよく勉強し、その治療法で直る可能性はあるのか、どんなリスクがあるのか、他の治療法は可能かどうかなどを研究するのだ。 その結果、医者を変えたほうがいいという結論になればそうすべきだし、民間療法による治療が適切だという結論になればそうすべきだ。

 自分が収集した情報に基づいて臆せずに医者と話し合うべきである。 要は、自分の病気の治療にふさわしい医者を見つけることだ。 それは自分にふさわしい病院を見つける方法でもある。

 もちろん、病院へ行くことが必要だと確信した場合の話だが。

 
大学病院をめぐる迷信


 一番いい病院は大学病院だ、と世間では考えられている。
 医学生が学び、充実したスタッフがそろい、研究が盛んに行われれいる。

 しかし、生物の授業で使われるカエルやザリガニ、豚の胎児のようになりたくないなら、大学病院へ行くことはやめたほうが身のためだ。
 院内感染の発生率が最も高く、臨床検査と調剤のミスが最も多く、患者の取り違えが最も多発し、患者が受ける精神的ダメージが最も深刻な病院に行きたいなら、大学病院がうってつけだ。
 もし治療法や薬の有効性(または有害性)を調べるために自分の体を提供したいのなら、大学病院ほどその目的にかなう場所は他にはない。

 大学病院では、診療、研究、教育が三本柱とされているが、これも間違いだ。 医者がこの三つの全てに力を注ごうとすると、診療がおろそかにされやすい。 大学病院を選んだ人には、くれぐれも注意するように警告しておく。

 どの医者であれ、そしてその医者がどの病院を紹介しようと、患者は常に生命の危険にさらされるから警戒すべきだ。
医者や看護師に素直に従ってはいけない。 人間の尊厳を踏みにじるような扱いに対しては断固として抵抗すべきだ。

 
患者と付き添いの絆


 身内であれ友人であれ、付き添いとして果たさなければならない役割がいくつかある。 まず、患者の食生活の管理だ。
患者自身、入院中に栄養失調になることなく生還を果たすために食生活の管理はしっかりしなければならないし、病院の食事で物足りなかったら、家から持参してもらうように付き添いに頼むといい。 病院食でちょうどいいと思うなら、その病院が例外か自分の普段の食生活を見直すべきだ。

 看護師や技師が検査を理由に食事を摂らせなかったり中断させたりするなら、付き添いは患者に代わって抗議しなければならない。 また、患者が弱っていたり、食欲を失って食べられなかったりするときは食事の世話をする必要がある。 食事内容はメモしておき、あとで医者に報告するといい。 特別な食事療法を行っている患者の場合、出された食事が適切かどうか確認することも忘れてはならない。

 患者が服用する薬の管理も付き添いの仕事だ。 誤飲を避けるためであり、別の患者の薬と間違えていないかどうかも確認する必要がある。 また、手術の順番や患者の居場所を確認し、検査の際は患者と一緒に出向くようにすべきだ。 
エックス線検査のときは検査室まで同行し、患者が一人でさびしく待つようなことがないように気をつけ、適切な検査かどうかも確認する必要がある。

 この他、治療の方針と経過について医者に質問し、看護師には点滴の具合を確かめてもらい、感染症の患者と同室にならないよう配慮してもらう必要がある。 とくに医者が患者に触れるときは、手洗いを要求すべきだ。 医者が病室から病室へ、患者から患者へと回診しているところを見ていると、しばしば手を洗っていないことに気付くはずだ。 たとえ洗っても少し手をぬらす程度で、適当なことが多い。 付き添いは医者に手洗いを励行するように求めるべきだ。 医者の手には何がついているかわかったものではない。 

 特別な用事がないときは、患者の精神面のケアをするのも付き添いの仕事だ。 入院生活で患者が受ける精神的ダメージは計り知れないものがある。 職員の冷遇や治療の被害で患者が心身に痛手を受けたとき、家族や友人はかけがえのない存在となる。 どんな立派な病院でも、怖くて危険なのは同じだ。 患者が心の支えと保護を最も必要としているとき、家族や友人からそれを得られることは最高の精神的財産である。

 付き添いと患者の結束が固ければ固いほど、看護師や職員は困惑するかもしれないが、何も気にすることはない。
素晴らしい付き添いに恵まれた患者は、真心のこもったケアによって保護され、愛されていることを実感できるのだから。


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