医者が患者をだますとき


第5章 医者が家族にかかわるとき

家族の絆を断ち切る戦い


 家族を崩壊させることにかけては、現代医学の右に出るものはない。 家族の崩壊は何年も前から言われているとおりだ。 実際アメリカでは二組に一組の夫婦が別居か離婚をし、子ども六人に一人が片親だけで育てられている。
 家族という言葉が、すでに本来の意味を失っている。 ここで言う家族とは血縁集団のことだが、三人以上の大人が同居している家族は全所帯の5%しかいない。 子ども、両親、祖父母などがそろった家族を「大家族」という特別な呼び方をすることで、人びとはこうした殺伐とした状況の弊害から目をそむけようとしている。

 専門家は「核家族」という言葉を普及させ、核エネルギーに対してかつて抱かれていた明るいイメージをこの言葉に持たせようとした。 だが、そのイメージは決していいものではなかった。
 核家族の中心にあるものは何か。 親か、子どもか、それとも無か。 いやそのどれでもない。 核の本質は爆発と不安定だ。家族を核家族と呼ぶことは、人々に爆発と不安定を連想させる。 核が本来の運動を開始して家族を振り回せば、核家族は分裂し、やがて崩壊することになる。

 家族の崩壊の原因として学校と教師が槍玉にあげられている。 たしかに学校と教師も家族を攻撃し弱体化させている軍隊の一部だが、陣頭指揮している将軍は医者だ。 もし医者がいなければ、家族を崩壊させることはできない。 家族を崩壊させる現代医学の聖戦は、学校のそれとは比較にならないほど激しく、しかもたちが悪い。

 「家庭医学」という言葉は、もともと家族への健全な影響という意味だった。 しかし、医者にとってこの言葉は、患者の家族に介入する手段を意味している。 現代医学は家族の影響が重要ではなく、むしろ忌避(きひ)すべきものとみなしている。

 医者が往診しなくなったのは、病院のほうが多くの患者を診ることが出来るからだと世間では考えられている。 だが、真相はそうではない。 医者にとって患者の家庭は敵陣であり、そんな場所で診察したくないからだ。 病院なら多くの患者を集められるだけでなく、患者を家族の影響から引き離すことが出来る。 患者の家庭に乗り込んで敵陣を制圧し、家族の絆を断ち切ることは、医者にとって地の利がないだけに困難なのだ。

 医者がいう家庭医学を成功させるためには、医者がその信念を家族に伝え、家族の役割を奪い、その代役を演じる必要がある。 そのとき、医者が患者の家族に共感したり、家族の伝統や絆を共有することは決してない。 そもそも患者の家族に何が起ころうと、それは医者の関心事ではないのだ。

 医者にとって、患者の死は悲劇ではない。 死んだのは自分の息子でも娘でもなく、父親でも母親でもなく、祖父、祖母、おじ、おば、いとこのどれでもなく、あくまでも患者だからだ。 医者は医学生のころから、患者と距離を置くように教え込まれているのである。

 医者は家族が難局に直面し、精神的に追い込まれる時期をうかがっている。 そしていよいよその時期が来たとき、医者は家族に介入し状況を制圧する。 宗教は誕生、成人、結婚、死といった節目になる出来事と、人生を深く考えさせる局面で厳粛な儀式を執り行って家族を支えるが、現代医学教では患者の家族の絆を断ち切る儀式が執り行われる。


出産に介入する産科医


 核家族にとって最初の赤ん坊が生まれることがわかると、現代医学の介入はとたんに激しさを増す。
 通常の宗教なら出過ぎない程度ですますところだが、現代医学教の医者はことさら危機感をあおって、全面的な攻撃を仕掛ける。

 口火を切るのが産科医である。 本来なら出産は自然の営みであるはずだが、病気とみなされ医療処置が不可欠な状況であるかのように仕立てあげられる。 出産の95%以上は合併症を生じることなく進行するが、もし産科医がこの事実を認めてしまえば、自分たちの仕事の95%以上は不要であることが明るみに出る。 そうなると産科医は激減し、健全な家族が増えるのだが、残念ながら現実にはそうはならない。

 皮肉を言えば、産院での出産は分娩室ではなく手術室で行われたほうがいいのかもしれない。 産院出産は自宅出産よりもはるかに危険だからである。 赤ん坊にとっては陣痛と分娩で苦痛に見舞われる確率が六倍、難産になる確率が八倍、蘇生術を必要とする確立が四倍、感染症にかかる確率が四倍、一生傷を負う確立が三十倍である。 一方、母親も三倍の確率で出血多量に陥りやすい。

 いったん産婦が分娩室に入れば、そこは産科医の陣地で、いっさいが思いのままだ。 産科医の力を誇示するため、愚劣な処置が次々と繰り出される。
 まず、陰毛を全てそり落とされる。 しかし、分娩前に剃毛したところで、病原菌の数を減らすことはできず、むしろ増やしてしまうおそれがあることは1930年代から知られている。
 次に、分娩台に仰向けにされ、左右の支脚器に片足ずつ乗せて股を大きく開かされる。 実は、仰臥位(ぎょうがい)と呼ばれるこの体位には、産科医の思惑通りに事を進める意味しかない。
 さらに、産婦の腕に点滴装置がつながれ、必要となればただちに麻酔薬が送り込まれる仕掛けになっている。 産婦は家族から隔離されているだけでなく、体の自由さえ奪われている。 このとき産科医はいつ出産させるかをほぼ決めている可能性があるのだ。

 産婦は麻酔によって感覚を失わされ、出産を実感する機会を奪われる。 産科医が産婦を眠らせるのは、極め付きの医療行為をするためであろう。 その際行われる極め付きの医療行為とは、帝王切開なのだ。
 帝王切開の副作用のひとつは、ときには産後数週間から数ヶ月が経過した時点で現れる。 この帝王切開の方法で産まれた赤ん坊は、母親による児童虐待の被害にあいやすいのである。 帝王切開で産むと、母親は誕生の最初の数時間から数日間、赤ん坊と一緒に過ごす事ができなくなる。 麻酔の作用が消えるまでかなり時間がかかるからだ。 おまけに母親は手術のため産後の肥立ちが悪くなる。 母と子の絆を結ぶ最初の貴重な期間が帝王切開のため台無しになるだけでなく、お産に対して抱いていた期待が、失望と苦痛のため消えてしまう。 以上の理由から、帝王切開のあとでは母親の赤ん坊への愛情が乏しくなりがちなのだ。

 もちろん、帝王切開でなく普通に産んでも、そしてそれが未熟児であっても、母親には出産直後の貴重な数時間または数日間を赤ん坊と幸せな気持ちで過ごす権利がある。
 だが、母親がよほど抵抗をしないかぎり、赤ん坊はさっさと取り上げられて、新生児室と称する収容所に送り込まれる。
 とはいえ、陣痛と分娩に加えて会陰切開や麻酔といった処置を受けたあとで母親が抵抗するのは至難の業である。


育児に介入する小児科医


 家族の弱体化を狙っているのは小児科医も同じだ。 方法はまず、母親に適切な育児をする能力が欠けていると感じさせることからはじまる。 あらかじめ小児病棟の看護師が育児のあらゆる側面について指導し、医者が現れる前に服従の素地を作っておく。 もちろん看護師は医者の指示に従っているだけである。

 小児科医が母と子の関係にじかに加える最初の攻撃は、赤ん坊に何を飲ませて育てるかという育児指導である。 小児科医は母親の乳房に人口のミルクが入っていないことが自然の摂理に反しているとでも言わんばかりに「ミルクは母乳と同じくらい栄養価があります」と教え込む。

 私は小児科医の実習を受けていたときに、母親から「母乳かミルクのどちらで育てるべきですか?」という質問を受けたときの模範解答をこう教えられた。 「どちらを選ぶかは、母親しだいです。母親がどちらを選ぼうとも、小児科医としてはできる限り支援するつもりです」
 こんな答えはでたらめもいいところだ。 粉末をお湯や水で溶かせば出来上がりというミルクは、しょせんインスタント食品であり、栄養的に劣悪なジャンクフードの典型である。 

  ミルクが母乳と同じくらい栄養価があるなどということは、いまも昔もこの先も絶対にあり得ない

 牛乳はあくまでも子ウシのための食糧であり、人の赤ん坊は人乳で育てるのが自然の摂理である。 
牛と人とでは乳汁の組成が異なり、それぞれの種の乳汁は、その種の乳児に必要な栄養の条件を完全に満たしている。
哺乳類同士でも、例えば子牛に豚の乳汁を与えると、病気になって死んでしまうことがよくある。
 ミルクで育てられる赤ん坊(人工栄養児)は、母乳で育てられる赤ん坊(母乳栄養児)と比べて、病気にかかる率がきわめて高いのである。

  その病名を列挙しよう。

  下痢、  激しい腹痛、  胃腸の感染症、  呼吸器系の感染症、  髄膜炎、  高熱、  頭痛、

  嘔吐、  けいれん、  意識障害、  ぜんそく、  じんましんなどのアレルギー、  肺炎、  気管支炎、

  肥満症、  高血圧症、  動脈硬化、  皮膚炎、  発育障害、  甲状腺機能低下症、

  テタニー(強直性筋けいれん症)、  全腸炎、  乳幼児突然死症候群(SIDSシズ


 赤ん坊にとって、これは悪夢の連続である。
 科学的・生物学的な点から見ても、人工栄養が母乳栄養に取って代わる適切な育児法であるとは考えられない。
 母親の99%以上が完全に母乳で育てることが出来るのだから、なおさらのことだ。


小児科医の支離滅裂な育児指導


 小児科の研修医だったころ、エブリン・ランディンという優秀な看護師に出会って強い影響を受けた。 私は今でもそのことを感謝している。 彼女は未熟児の担当で、1000c未満の超未熟児を含め、全ての未熟児の母親に母乳栄養を勧めていた。
というより、要請していた。

 未熟児の場合でも、母乳栄養のほうが人工栄養よりはるかに発育が良好であることは疑いの余地はない。 
実際、私は2000c未満の未熟児でも全員を母乳で育てさせ、無事退院させてきた。  母乳で育てる意思のない母親には、赤ん坊の入院を許可しないのが私の方針だ。

 母乳にはミルクにない利点がたくさんあることを母親にしっかり教える。 これこそが、この世から小児科を根絶してしまうための私の処方箋だ。 人工栄養が危険であるという事実を指摘すると、母親は心配になって別な病院に駆け込む。 
するとその医者は、母乳で育てれば赤ん坊は元気に育つという事実を無視し、こんな風に言ってくれるだろう。
「最近のミルクは母乳に近づいていますから、そんなに違いはありません。母乳で育てなければならないなどと思いつめず、柔軟に対応してください」そういって母親の罪悪感を取り除いてくれるのだ。

 母乳で育てると赤ん坊は病気になりにくくなるから、小児科が不要になる。 

実はこれが小児科のからくりである。

 母乳栄養を力説する小児科医は数えるほどしかいないが「もちろん母乳が一番ですが、ミルクも同じくらい栄養価があります」などと言う小児科医は掃いて捨てるほどいる。 母乳栄養と人工栄養という相容れない二つの育児法を同時に推奨する支離滅裂な育児指導を、私は「小児科式二重思考」と呼んでいる。

 典型的な行動パターンを紹介しよう。

 母親に対し、粉ミルクの無料サンプルを渡す。

 すでに母乳栄養を行っている母親に対し、哺乳瓶やポットといった人工栄養の器具を差し出す。

 母親の乳首を吸う力を弱めて人工栄養に誘導するため、赤ん坊に糖液を飲ませるように勧める。

 発育曲線を指し示し「体重が順調に増えていません」とおどしてミルクを足すように勧める。

 実はその発育曲線は、粉ミルクのメーカーが販売促進のため作成したものである。


 こんな小児科医は、母体から母乳を介して赤ん坊に免疫が与えられ、それによって赤ん坊が感染症から守られることを、
 子どもの母親や家族には教えない。
 また、母乳が赤ん坊の骨の成長と知能の発達を即すことも教えない。
 さらに、母乳育児が母親自身の乳がん予防に効果があることも教えない。

 母乳育児は家族のためにも好ましい。 母と子の絆は母乳を介して深まるからだ。 赤ん坊が乳首を吸うと母子相互作用が働き、射乳反射によって母親の体内でオキシトシンが分泌される。 このホルモンには産後の出血と不快感を和らげ、子宮を早く収縮させて本来の状態に戻すだけでなく、母親に感覚的な喜びを実感させる働きがある。

 しかし、人工育児で粉ミルクを水で溶いて哺乳瓶のゴム乳首を吸わせても、母親としての喜びはなかなか実感できない。 さらに、人工栄養には四時間おきの授乳という心理的負担がついてまわる。 規則正しさを重視するあまり、家族全員に負担を強いることになる。


育児ノイローゼと離婚


 赤ん坊を抱いて退院するときも、医者は家族を分裂させるような育児指導をする。 こんなことを言う小児科医がいるのだ。
「これだけは忘れてはいけませんよ。もし赤ん坊が泣き出したら、泣きたいだけなかせておきなさい。赤ん坊は泣くと肺が強くなります。母親は赤ん坊が何とかしてほしそうなそぶりを見せても、ないていけないことを教えなくてはならないのです」
 こういう育児指導は赤ん坊の本能を無視しているだけでなく、母性本能をないがしろにしている。 赤ん坊は何かしてほしいから泣いているのだ。 医者はまたしても自然の摂理が間違っているとでも言うのだろうか。

 医者は権威を盾に取り、家族を本能と伝統に逆らわせようとする。 家族は蓄積された経験に基ずく知恵を信頼することができず、医師免許証に裏打ちされた医者の「教養」と専門知識の前に屈する。
 男性の小児科医なら育児経験がないこともあるし、ましてや子どもを産んだことは絶対にない。 それなのに、母親よりも赤ん坊の泣き声の意味をよく理解していると主張するのは何故なのか。 一度、じかに聞いてみるといい。 医者は壁に寄りかかった額入りの医師免許証を指差すことであろう。

 小児科医と会う時間が一ヶ月にほんの数分であっても、若い母親には問題が生じる。 医師が勧める育児書を読んで勉強しているうちに、頭が混乱してくるからだ。 若い母親は自分の考え方や感じ方に自信がなく、自分の母親や祖母の助言に耳を貸さないように医者から言われる。 結局医者の指導に従っているうちに、ますますわけがわからなくなる。

 アメリカでは大多数の家族が親戚と離れ離れに住んでいるから、自分の母親や祖母がそばにいれば得られるはずの心の支えや慰めとは無縁になる。 若い母親は、ひどいときには精神錯乱に陥ることがあるのも無理はない。 産後数ヶ月のきわめて大切な時期に専門家たちの矛盾だらけのアドバイスしか受けることができず、赤ん坊と二人きりで家の中で過ごすのである。
 こんな状況では、赤ん坊が一歳の誕生日を迎えるまでに母親が育児ノイローゼになるのも当然だ。 ちなみに、もし父親が同じ状況に置かれたら一ヶ月ともつまい。

 家の中で助けてくれる人がいないので、女性は窮地を脱するために家庭から避難しようとする。 多くの場合、問題の原因と解決策を相手になすりつけているうちに夫婦の溝はあまりにも大きくなり、結婚生活が破綻して離婚という結末を迎える。 
そこまでの事態にならなくても、女性は家を出て「充実感の得られる」仕事を捜し求める。 いずれの場合でも子どもは面倒なので保育所に預けられる。

 
保育所と早すぎる独り立ち


 たいていの場合、女性が仕事を通じて充実感を得るという発想は幻想である。 ただし、それは男性でも同じことだ。 ほとんどの仕事は充実感が得られるものではなく、退屈で決まりきった労働を機械的にこなすだけである。 それでも働き続けるのは、給料をもらうためなのである。

 家庭をつくって子育てに励むことほど、女性にとって充実感を得られる仕事はあるまい。 もちろん女性も家庭にこもらず、外に出て積極的に活動して自己表現をする必要があるが、その目的をかなえてくれる仕事はめったにない。 たとえそういう仕事が見つかっても、日々忙しく働き続けていくうちに、やがて自分が本当にしたいことをする時間がなくなっていることに気付く。 
しかも、ただ働いていればいいというものではなく、女性にも男性と同じように目標を達成して競争に勝つことを求められる。
だが、そういう姿勢は、誰にとってもストレスがたまるばかりで健康的ではない。

 家庭の外で充実感を得ようとすることは幻想に過ぎない場合が多い。 その幻想が家庭に及ばす影響は現実となって深刻な影を落とす。 昔の子どもは六歳になってから集団生活を始めたが、今は保育所が各地にできて、入所が認められると母親はすぐに子どもをそこに送り込む。 最近では0歳児でも入所できるところがあるほどだ。
 昔の保育所では食事が出されなかったため、子どもが保育所で過ごすはほんの数時間で、あとは家で過ごしていた。
ところが、今はそうではない。

 ヨーロッパでは、保育所は母親の働く工場や店やオフィスと同じ場所か、なるべく近いところに設置されている。 幼い子どもが母親とはなれることで受ける精神的ショックを和らげるための配慮で、母親は昼休みに子どもに会いに来て一緒に食事をする。
 それに対しアメリカでは、保育所が母親の職場から遠いところにある場合が多く、母親は朝早く子どもを預けると職場に直行しなければならない。 それから職場で8時間から10時間も「充実感の得られる」仕事をし、ぐったり疲れて帰宅すると家庭の中で愚痴をこぼす。

 保育所で子どもの面倒を見るのは、母親でなく赤の他人である。 本来、子どもは家族に育てられるのが自然な姿であり、そこに家族間の微妙で繊細な力学が働く。 ところが現代社会では、子どもは幼児期という人格形成上きわめて大切な時期を、他人の手によって育てられる。 保育所では、子どもが家族から引き離されたことの埋め合わせをする教育が必要になった。
そこで、大学や短大に育児の専門家を認定する「育児教育」と称する学科が設置されることになったのである。

 保育所には夕食を提供しているところもある。 昔は小学校でも給食をだすところはまれだったが、今はどの小学校でも当たり前のように出されている。 給食は学校内で食べる決まりだから、子どもが家に食べに帰りたくてもそうはさせないよう給食の時間は短く設定されている。 こうして、子どもの成長期に欠かせない一家団欒の時間が減っていき、子どもは家族の大切さを忘れて成長してゆく。
 なぜ、こんなことになるのか。 それは医者が「独り立ち」という不健全な考え方を奨励しているからだ。

 ニューヨーク在住のある家族のことを思い出す。 その家族は、若い夫婦と幼い子どもの三人暮らしだった。 あるとき、夫が失業してので妻が働きだした。 やがて夫は次の仕事を見つけたが、妻はその後も働き続けて、やがて大きな保育所の所長に就任した。 三歳になる息子もこの保育所に通っていた。 私が「それはちょうどよかった。子どもはずっと母親のそばにいられて安心だね」と言うと、この男性は「とんでもありません。私は息子に早く独り立ちしてもらいたいと考えています」といったのである。
 男性の説明によると、この夫婦は、息子を確実に独り立ちさせるために母親とは別のバスで通わせていた。 だが、そこまでして息子を独り立ちさせたことをこの夫婦はいつか後悔することになると私は危惧する。 三歳児にとっては家族に依存するほうが自然な姿だからだ。

 この男性が誰からこんな考え方を教わったのか、私におはおおよそ見当がつく。 それは小児科医である。 私はその小児科医が「子どもを独り立ちさせるため、出来るだけ早く親離れをさせてください」と指導している姿がありありと目に浮かぶのだ。
 小児科医は「幼い子どもが泣いてもそのままなかせておきなさい」という指導に始まり、家族を医者に依存させて家庭の問題に介入することを認めさせようとする。 だが、母と子の依存こそが健全な家庭の基盤である。 家族とは、互いに依存しあって生きてゆくべき存在なのだ。

 そこで私の提案である。 毎日を「家族依存記念日」に制定し、家族みんなで毎日この記念日を祝福してはどうだろうか。

 
精神科医の破壊的な役割


 子どもが学齢期に達すると、現代医学は教育者の協力を得て子どもを家族からさらに引き離そうとする。 本来なら親こそ子どもの教師であるが、親はその役割を奪われるだけでなく、子どもの教育に口をださせないようにPTA主催のバザーや催し物などの無意味な行事に煩わされる。 学習指導要綱の改訂という巧妙な方法によって、親が子どもの教育に大きな役割を果たせないよう仕組まれ、宿題すら手伝ってやることができないのが実情である。 学校で教える性教育も、家庭の価値観とは相容れないことがよくある。
 PTAの会合に出かけるために親は家をあけ、子どもはクラブ活動で多くの時間を家庭から離れて過ごすようになる。 こうして親と子の溝が少しずつ深まっていく。
 問題を解決しようにも、親は頭が混乱しているうえに、日ごろ子どもとあまり接していないので効果的な対策を講ずることができない。 当初の自信もなくなってしまっている。

 そこで精神科医の出番となる。 精神科医は精神療法などの一種独特な治療法を担当するために採用され、成功を収めている専門家なのだ。
 精神科医は、家族の問題を解決するために必要な言葉を教える。 親には子どもを形容する無責任、未熟、敵対心、情緒不安定などの表現を、子どもには親を形容する束縛、抑圧的、過保護、拒絶などの表現を教える。
 どれをとっても、親子が互いを激しく非難するときに投げかける言葉である。 教わったとおりに使うと、家族は関係を修復するどころか、互いが理解して歩み寄ることさえできなくなる。

 そもそも精神医学は、家族を分断する性質を持っている。 精神科医は患者に身内の欠点を言い立てるように指導する。
適切に行われるのであれば、この治療法は家族の緊張を解き、順応性を高め、健康を増進することが出来る。 しかし、それが適切に行われることはめったにない。 そもそも精神療法を受けた人たちの中で、少しは気分が楽になったという人に出会った経験が私にはほとんどない。 それもそのはずである。 精神科医は患者が何も言わない先から一方的に診断するのだから、患者の気分がよくなるはずはない。
 予約の時間に遅れれば「心の中に敵意が隠されている」、早めに行けば「心の中に不安が渦巻いている」、時間ちょうどに行けば「心の中に強迫観念が潜んでいる」と診断される始末だ。

 家族の問題についてカウンセリングを受けるために精神科医を訪れる夫婦を見ると、私は「離婚は時間の問題だ」と予想する

 家族に救いの手を差し伸べるはずの精神科医が家族に与えるダメージは、計り知れないほど深刻である。 家族を結束させるアドバイスをすることはめったになく、家族の絆を断ち切ろうとするのだ。 子どもが大学に行く年齢になると、一刻も早く家族から逃げ出そうとするのも不思議ではない。 精神科医の見当違いのアドバイスに惑わされ、互いに気持ちが通じない冷たい家庭にとどまりたいと思う若者がいるだろうか。

 一方、高齢者はかつて家族の中で特有の役割を果たしていたが、今では屈辱の対象になり、家庭から追い出されて老人ホームに収容される。 いったんそこに入ると、歳月をかけて培ってきた特別な才能や技能には敬意が払われない。
 現代医学は高齢者を家族から隔離し、尊敬されない風潮を広めてる。 そうすれば、高齢者の世代からは膨大な数の患者が確保できるからだ。

 医者は人々にこう説く。
「人は年をとれば病気になることは避けられません。人はみな、死に向かって体が衰えていくのです」
これは現代医学教の呪いである。 高齢者はこの呪いにかかり、自己暗示によって病気になりやすくなる。 そして人生の終末を迎えると家族から引き離され、集中治療室でチューブにつながれ、身動きがとれないまま一人寂しく死んでいく。

 
人工栄養の普及と被害


 そもそもアメリカ社会の成り立ちが、家族を崩壊させる要因を秘めていた。 アメリカは世界中の数百万の家族を分裂させ、大量の移民を受け入れて成立した国家である。 もっとも、移民の多くは新世界で困難な数ヶ月を乗り切るために、先にこの国に来ていた親戚を頼っていたし、開拓者の家族も一致団結していた。 だが、もとをたどれば、彼らは旧世界に残った家族と離散した人たちだ。
 少しでも旧世界の伝統を受け継いでいた古い世代がいなくなったとき、その後の世代は古い習慣とは無縁になった。 アメリカは「人種のるつぼ」と呼ばれ、あたかも多様な人々が融合しているかのように見えるが、実際にはなんら溶け合っていない。
むしろこの国は、家族の絆と伝統が蒸発するまで煮詰めた「不毛の大鍋」と呼んだほうがふさわしい。

 第一次世界大戦後に移民政策が打ち切られると、家族を崩壊させる現代医学の聖域の準備が整った。 新しい移民の流入が途絶え、家族の伝統を維持する絆がなくなったとき、人びとは伝統から完全に解放されただけでなく、そのような伝統がかつて存在していたことすら忘れてしまった。

 現代医学はこの状況を利用して小児科を発展させた。 二十世紀の最初の四十年間、全米には小児科医は数千人しかいなかった。 第二次世界大戦が始まると、工場労働の担い手であった男がかたっぱしから召集されて、働き手は女性しか残されていなかった。 しかし、女性が外で働きながら平時と同じように育児ができるはずはない。
 それなら保育所を工場の中に設置し、母親が愛国者としての義務と生物学的な義務を同時に果たせるようにすればいいではないか、という意見もあっただろう。 たしかに理屈ではそのとおりだが、現実にはそうはならなかった。 医者が生物学的な義務を拒否したからだ。

 戦争が始まると「ベビーシッター」「乳母」「核家族」という言葉が普及した。 医者は「子どもには母親が必要です」とは言わず、「子どもには母親か乳母が必要です」といった。 こうして数百万の母親が後ろめたさを感じることなく子どもを他人に任せて工場に出かけ、銃後の守りを固めて戦争遂行という国家事業に参画したのである。

 母親は一日の終わりに帰宅してほんの数時間しか赤ん坊と過ごすことができなくなったから、母乳栄養は困難になった。
だからといって、母乳栄養が生物学的に不要とか劣悪ということにはならない。 しかし、現実問題としてそれはきわめて困難だから、医者は人工栄養がこの難題に対する唯一の解決策であり、二つの悪(もうひとつの悪は授乳を放棄すること)の中では、まだましだと主張しただけでなく、人工栄養を「母乳栄養と同等の価値がある」と位置づけたのだ。

 もし医者が真実を話していたら、母乳栄養が人工栄養より優れていることを説明し、人工栄養児が母乳栄養児より死亡率が高いことを全ての研究が示していると指摘したはずだ。 また、愛国的な立場からジレンマに陥っていることを認め、女性に選択の余地を与えたはずだ。 しかし、医者は政治と権力の側につき、自然の摂理の生物学を無視するように女性を説き伏せた。

 小児科が人気と権力を拡大する一方で、粉ミルクのメーカー(その中には製薬会社も含まれる)は巨大な多国籍企業にまで成長した。 現代医学はこれらの企業と協力し、人工栄養法を世界中に普及させた。 といえば聞こえはいいが、この両者が実際にやってきたことは、無防備な人びとのあいだに膨大な数の乳児の犠牲者を出し続けてきたということなのだ。

 1952年、南米チリの母親の95%が生後一年以上にわたり、乳児に母乳栄養を行っていた。 ところが1969年にはその割合が6%にまで激減し、しかも母乳による授乳がわずか二ヶ月という赤ん坊が全体の二割を占めるようになった。 母乳栄養の減少はチリだけでなく世界中に共通しているが、その原因は医者が粉ミルクの販売員を産科病棟に出入りさせて、近代的な育児方法の押し付けを許可してきたことにある。 もちろん、そこでは粉ミルクの無料サンプルが配布され、医者が「ミルクは母乳と同じかそれ以上に栄養価があります」と指導している。 わが子の健康がかかっているうえに、どの母親も古くさいと言われたくない。 それに粉ミルクの販売員は医者と同じ白衣を着ているだけに説得力がある。

 しかし、これらの母親の大多数は粉ミルクの代金を払うだけの経済的余裕がない。 衛生環境も劣悪だ。 ところが粉ミルクは綺麗な水で溶かなければならない。 現在の欧米ではどの家庭にも綺麗な水が出る炊事場があるので、問題にはならない。
だが粉ミルクが最も多く販売されている発展途上国では、事情がまったく異なる。 チリのある調査では、哺乳瓶の八割が病原菌に犯されていることが判明している。 マラウイの首都リロングウェでは全所帯の66%に炊事場がないという。

 そして、粉ミルクの無料サンプルが底をつくころには懐具合が厳しくなり、母親たちは粉ミルクを買うことができなくなる。 そこで、より劣悪な乳児用食品を買うはめにる。
 我々は自国の乳児死亡率が世界で最も低いことを誇りに思うとき(実際はそうではないのだが)、現代医学が発展途上国の乳児死亡率を高くしていることに想いをはせるべきである。

 
医者の見当違いの育児指導


 現代医学が家族を攻撃する理由は単純明快である。 誰かを改宗させたいなら、家族の絆を断ち切ることが先決だからだ。
 「母親や祖母のいうことに耳を貸してはいけません。それは素人の判断です。我々の言うことに耳を傾けてください」
人びとはそう教えられ、専門家である医者以外には頼ってはいけないと思い込まされている。 家族の影響がなくなれば、後に残るのはマスメディアと広告、それに医者である。

 医者の攻撃から身を守るためには、医者よりも一般の人のほうが育児についてよく知っているという事実を心に銘記しておく必要がある。 医者が過去にどんなことを金科玉条としていたかを知れば、その意味がはっきりわかる。 

 例えば、昔の小児科の指導書にはこんなことが書かれていた。
 「乳幼児を喜ばせるためにものを見せる、音を聞かせる、動かすといった習慣は有害なことが多いですからやめましょう。抱く、キスする、膝に乗せることも絶対にいけません。どうしてもという場合は、夜寝かせる前におでこにキスを一回する程度にとどめましょう。生後六ヶ月に満たない赤ん坊とは遊んではいけません。キスすることは出来るだけ控えましょう。ゆりかごを揺らすのもいけません。おしゃぶりも禁止です。赤ん坊が指をしゃぶろうとしたら、肘を棒で固定して、腕が曲がらないようにし、夜は赤ん坊の両手を固定して寝かせましょう」

 今となっては医者のこの助言がいかに馬鹿げているか一目瞭然である。だが、当時の多くの母親はこれを信じ、赤ん坊をあやす母性本能を抑圧して、見当違いの育児をしていたのだ。

 
自宅で産むほうが安全

 
 家族を持つことを考えているなら、まず、子どもは何人作るかを自分で決めることが大切だ。 他人の思惑に従って自分の家族の人数を決めるべきではない。 そして、子どもをつくろうと思ったら、自宅出産にふさわしい医者を見つける必要がある。  自宅出産なら入院に付きまとう危険が避けられ、病院の処置や待遇に身構えることもなく、産後すぐに赤ん坊と過ごせるから、喜びが増す。

 検査の前から自宅出産の危険性をあげつらね、病院出産を勧める産科医は明らかに失格だ。 良識ある産科医や助産師なら、妊婦の意思を尊重し、自宅での出産の妨げになる病気がないかどうかを確認するはずだ。 ほとんどの家族にとって、自宅出産は病院出産よりもはるかに安全なのだ。
 協力してくれる医者が見つからないなら、次善の策として、病院で産んだら直ちに退院すればいいのだ。

 自宅出産に反対していた医者を見事に撃退した例があるので紹介しよう。
 私の教え子の奥さんが産科医に
 「出産の際には夫も立ち合わせてほしい」と申し出たところ、その医者は
 「出産はたいへん個人的なものですから、ご主人は立ち会うべきではありません」と答えた。
 するとその奥さんは
 「出産がそんなに個人的なものなら、医者も立ち会うべきではないと思います」と反論した。

結局、奥さんは夫に立ち会ってもらい、最初の子どもをその病院で出産したが、産後二十分ほどして赤ん坊を抱いて親子三人で病院を去った。 その後、二人の子どもを産んだが、どちらも自宅出産だった。 この奥さんの夫はのちに自宅出産の専門家となり、この分野の権威になった。

 
母と子の絆の確立

 
 現代医学の攻撃は、出産の際に夫を妻から引き離す事から始まる。 だからこそ、女性は夫が立ち会うことを産科医に申し出る必要がある。 もちろん夫はただその場に立ち会うだけではない。 夫が妻の出産に立ち会うということは、妻と生まれてくる子どもを精神的に支え、家族を守るためである。

 病院出産は、赤ん坊を家族から引き離そうとする環境で行われる。 病院で産むと決心したら、理不尽な規則に対して常に疑問を抱く姿勢を貫くべきだ。 例えば「赤ん坊が産まれたら、自分か夫が抱きしめるつもりです」と出産前に病院側に伝えておかないと、看護師が赤ん坊を母親から引き離してしまう恐れがある。 だが、赤ん坊は母親の大切なものであって、病院のものではない。 赤ん坊にとっては、誕生直後の貴重な数分間を母親に抱かれて過ごすことが本来の姿なのだ。

 病院は母子同室を約束していながら、断りもなしに母親からこの権利を奪うことがあるから要注意だ。 小児科病棟の常勤の看護師たちが夏休みをとると、母親と赤ん坊を別室にすることが約束事になっている病院さえある。
 母親は、母乳栄養に対する医者の偏見から自分と子どもを守らなければならない。 ここでは医者に罪のない嘘をつくテクニックを覚える必要がある。 「ミルクには母乳と同じ栄養価があります」などという医者とはいくら議論をしても意味がない。 こんな医者には適当にうなずいて無視するにかぎる。

 ある母親は、医者から「赤ん坊の体重が順調に増えていません。ミルクを足してください」と言われ、粉ミルクの無料サンプルをもらった。 その母親は反論せずにそれを受け取ったが、帰宅途中のごみ箱に全部捨てた。

 シカゴ在住のマリアン・トンプソンという女性が最初の子どもを出産したとき、母乳育児に関するアドバイスをしてくれる人が見つからなかった。 小児科医も母乳育児について全く知らなかった。 そこで彼女は数人の女性と力を合わせて「ラ・レーチェ・リーグ」(ラ・レーチェはスペイン語で「母乳」の意味)を結成した。 これがのちに国際組織にまで拡大し、世界中の母親に母乳育児の方法を教えてきた。 現在、会員数は数十万人に達し娘たちの世代にも教えている。 母乳育児を支援し普及させるために「ラ・レーチェル・リーグ」に加入するといい。

 医者が育児に関して母親に言う一言が問題になるケースが実に多い。 たとえば、「母乳栄養はかまいませんが、生後六週間で固形食を食べさせるべきです」というのがその典型である。 こんなアドバイスは何の根拠もない。 固形食を食べさせるのは、生後六週間どころか六ヶ月を過ぎてからだ。
 医者のこの育児指導は、生後六週間の赤ん坊に、毎日、母親が固形食かそれに近い食品を強引に与えてしまうという弊害をもたらしている。 赤ん坊にとって、母乳は最良の食品であり、それと同等の価値があるという「代替食品」は絶対に存在しないのだ。
 赤ん坊が泣いているときは、ためらうことなく抱きかかえてやればいい。 赤ん坊は誰かに世話をしてほしいから泣いて訴えているのだ。 泣いている赤ん坊を無視し、泣かないようにしつけるという考え方は馬鹿げているし、人間の本能を無視している。赤ん坊が夜中に目を覚ますのは、おそらく、母親と父親と同じ部屋か、さらに同じベッドで安心して寝たいと望んでいるからだ。
 赤ん坊は親と別々の部屋で寝なければならないという医者の育児指導は、家族の絆を断ち切ろうとする現代医学の誤った考え方のひとつである。 大人でさえ夜一人で寝るのは落ち着かないという人は多い。 ましてや、赤ん坊が慣れ親しんだ母親の肌のぬくもりと優しさから引き離されて、真っ暗な部屋の冷たいベッドで一人寂しく寝ることなど出来るだろうか。

 赤ん坊に固形食を食べさせるときは、離乳食メーカーの嘘の宣伝を無視すべきだ。 メーカーは自分たちが製造する加工食品が家庭料理よりも栄養バランスが優れていることを証明する大学の研究所の報告に事欠かない。 だが、もし家庭料理がベビーフードよりも劣悪なら、家庭料理を食べている人はみな病気になっているはずだ。
 赤ん坊には家族と同じものを食べさせればいい。 切って、刻んで、裏ごしにし、混ぜる。 ただし、赤ん坊がアレルギー反応を起こしたときに原因を特定できるよう、一回に食べさせる新しい食品は一種類にするよう配慮が必要だ。

 
かけがえのない家族

 
 食事の時間はできればみんなで過ごすようにしよう。 家族全員が食卓を囲んで楽しい時間を共にすれば、自然に会話が弾んで互いの気持ちが通じ合う。 

 親戚同士は心理的にも距離的にも出来るだけ近くにいたほうがいい。 とくに高齢者のそばにいてあげよう。 高齢者には周囲に身内がいることが必要だし、家族にも高齢者にそばにいてもらう必要がある。 子守は親戚の人にしてもらったほうがいいから、親戚の人を頻繁に招待しよう。 子どもには親戚の人がそばにいればいるほどいい。
 家族が離れ離れになることはなるべく避けよう。 赤ん坊が病院にいるあいだは両親もできる限り付き添うよう病院側に申し入れるべきだ。 また、保育所に変わるものも考えなければならない。

 以上のことを考えれば、自宅で出来る仕事のほうが家の外に仕事を求めるよりも充実感が得られる。 外で働くフルタイムやパートタイムの仕事が必要なら、親戚や近所の人と時間をやりくりして共同保育所を作ってもいい。 共同保育所は家庭的な環境を重視しているという点で、営利を目的にしている保育所よりも優れている。 昼間、仕事や学校、または生涯学習で子どもと一緒にいてやれなければ、夜は出来るだけ家族と共に過ごし、夜の集まりが欠かせない活動に参加するのは控えよう。

 休暇は親戚、友人、近所の人たちと過ごそう。 毎年、クリスマスのころになると、孤独な人たちのあいだに重度のうつ病が多発したり自殺が多くなったりする現象がおきている。 この時期、精神科医は必ず休日を返上して大忙しとなる。 本来、休暇とは、自分を支えてくれている人たちと祝って絆を深める機会である。 家族を崩壊させる現代医学に屈した人たちは、当然の欲求を家族によって満たすことのできない被害者なのだ。

 大学に入学し自宅から離れて一人住まいしている子どもを訪ねよう。 大学のスケジュールが許すなら、時には家族を優先して家に帰ってくるように伝えるといい。 家族が恋しくなったときには、いつでも帰ってこられる場所があることを子どもに教えてやるのだ。 子どもにはどうしても家族が必要なのだから。

  
医者との接し方

 
 人は生きてゆくうえで、医者との接し方を身につけなければならない。 これは、正直であるよりも現実的にならなければいけないことがあるという意味である。 実際問題として、従順にしていると医者の犠牲になる恐れがあるのだ。

 女性の場合、医者に行くときは、誰かに同行してもらうほうが安全だ。 結婚しているなら夫がいい。 夫が付き添っていると、医者は最も注意深くなるからだ。 女性を二級市民として扱ってはならないが、医者にはその傾向がある。 医者が抱いてる女性軽視の考え方のために、女性は自分の健康を犠牲にしてはいけない。 私は、人々が現代医学教の殉教者でなく異端者になって勝利を収めることを願っている。 

 医者や看護師と向き合うときには、動じない意志の強さが必要である。 入院患者のそばにいると「患者から離れてください」と看護師に言われることがある。 だから、文字通り動じない意思の強さが必要なのだ。
 末期患者の最後を自宅で迎えさせてあげるためには、これは欠かせない配慮である。 人間が人生の始まりと終わりを病院で迎える姿は自然な姿ではない。 患者が集中治療室にいるときは、家族でもほんのわずかな時間しか面会が許されないが、こんな規則は無視して集中治療室に入り、患者のそばにいてあげるのが肉親の情というものだ。 こんな大切なときに病院の規則を優先する必要はない。

 看護師が退室するように言ってきたら、その理由を問いただすといい。 「家族がいると患者さんに大きな負担がかかるのでお帰りください」と言うようなら「患者については家族である私のほうがよく知っています」と答えて、看護師に「なぜそんなことを言うのですか」と問い返すといい。 すると看護師は「規則ですから」と答えるだろう。 それなら、その規則を記した文書を見せるように要求すればいい。 看護師は困って医者を呼んでくるに違いない。 そうしたら、医者にも冷静に同じ事を問いただせばいい

   「なぜ、私がそばに付き添っていることが患者の負担になるのでしょうか?
   病院のスタッフは患者のそばにいてもかまわないのに、
   なぜ肉親の私がそばに付き添ってはいけないのですか?」

 現代医学の攻撃から自分の家族を守るとき、家族が健康の源泉であることを認識しよう。 危機に直面したときは、家族の助言と支えを求めよう。 家族の誰かが助けと支えを必要としているときは、そばにいてあげよう。 そうしないと、すかさずホームドクターが来ることになるだろう。


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