医者が患者をだますとき


第3章 医者がメスを握るとき

おびただしい不要な手術


 二十世紀後半の医者たちについては、次の二つが記憶されるだろう。

 ひとつは、奇跡とまで賞賛されたペニシリンやコルチゾンなどの薬が大きな被害をだしたこと。 もうひとつは、生身の体を切り刻む医療行為(手術)が年中行事のように行われていることだ。

 アメリカ連邦議会小委員会がだした資料には、手術の実態が次のように報告されている。

 毎年240万例以上もの不要な手術が行われ、40億ドル以上が浪費されている。 術中・術後に死亡する年間25万人もの患者の5%に相当する一万二千人以上がこうした不要手術の犠牲者だ。
 ある調査では、必要が認められない手術は年間300万例以上と判定され、さらに複数の調査でその数は手術総数の11〜30%をも占めていると報告されている。  しかし実態は、手術の約九割が時間・労力・費用の無駄であるばかりでなく、患者の命を奪う結果になっている。 

 手術を勧められた患者を調査した研究によれば、そのほとんどに手術の必要性が認められなかったばかりか、患者の半数には医療処置そのものが不要だったことが判明している。

 手術で切除された組織を調べる委員会が結成され驚くべき統計が発表された。 

 ある病院では、委員会が結成された年の前年に262例の虫垂摘出手術(盲腸の手術)が行われていたが、翌年には178例に減少し、さらにその後数年で62例にまで減少した。 結果、正常な虫垂が摘出される割合も55%と半減している。 同様の現象は他の病院でも見られ、委員会の結成を機にこの手術の総数が三分の二も減少した病院の事例も報告されている。 
いかに医者が不必要な手術を行い多くの命を持て遊んでいるかがわかる。
 ただ、委員会のメンバーが医者であるため、彼らが有効と信じて疑わず頻繁に行われているがん手術、心臓バイパス手術、子宮摘出手術といった何十種類もの手術が、この調査対象になっていない。

 不要な手術の被害を一番受けているのが子どもである。 扁桃摘出手術は日常的に行われている手術のひとつで、子どもの手術の約半数を占めている。 だが、その有用性となると、いまだに証明されていないのが実情である。

 扁桃摘出手術が本当に必要になるのはきわめてまれで、1000人に一人いるかどうかである。 子どもが大きな寝息をたて、いびきをかいて眠っていても、なんら問題はない。 危険なのは扁桃腺がかなり肥大して呼吸障害を起こし、窒息しそうになっている場合である。 息きが出来ず苦しんでいる子どもの場合は速やかに扁桃腺を摘出すべきかもしれない。

 私は外来病棟の医者に見意味な質問を控えるように指示した。 当然、扁桃摘出手術は激減した。 すぐに耳鼻咽喉科の所長から「そんなことをされたら医学生の研修計画が台無しになる」とクレームの電話がかかってきたのである。

 扁桃摘出手術はヨーロッパで2000ねん以上前から続いている手術であるが、摘出したらどういう効果があるかということについては証明されていない。 医学界でもこの手術については意見が分かれる。 それでもこの手術をする理由を探すとすれば、登山家が山に登る理由として「そこに山があるからだ」と応えるのと同じであろう。 医者は腫れている扁桃腺を見ると「そこに扁桃腺があるからだ」という理由で摘出したくなるのだ。 医者の巧妙な説明のおかげで、親は子どもの扁桃摘出手術が安全だと信じている。 はたして本当に安全なのだろうか。

 扁桃摘出手術の後遺症はほとんどないが、皆無ではない。 死亡率は3000人に一人だが、精神的な後遺症はひんぱんに見られる。 手術後大好きなアイスクリームを食べさせてもらっても子どもは癒されない。 親と医者がグルになって自分を懲らしめたという思いに悩まされるからで、子どもに手術の精神的な悪影響がはっきり見て取れる。 うつ状態に陥り、悲観的な気分に悩まされ、恐怖におびえ、家庭でもおどおどするようになる。 だが、それは子どものせいではない。 子どもは扁桃の摘出という明らかに愚劣な処置を受け、心に深い傷を負って苦しんでいるのである。


子宮摘出手術の大半は不要、でたらめな産科医療


 女性も不要な手術の犠牲者である。 子宮摘出手術はその典型で、年に100万例の大台に向かって着実に増加している。
 数年前の全米保険統計センターでの推計で、子宮摘出手術をうけた女性は年間69万人で、女性10万人に対し648人であった。 このペースで行くとアメリカの女性の半数が65歳までに子宮を失う計算になる。 ただし、実際はそれを上回るペースで増え続けている。 最近では子宮摘出手術は年間約80万例も行われているのが実情だ。

 子宮摘出手術の大半が不要である。 調査では、ニューヨーク市内の六つの病院で行われた子宮摘出手術の43%が不要だったことが判明している。 この手術の根拠は、子宮の異常出血と生理の際の大量出血とされているが、こうした症状には手術以外の方法も有効だし、たいていの場合まったく治療しなくても自然に治るのである。

 産科医は外科医の地位と権力にあこがれる。 その結果、出産という自然の営みに介入し、妊婦を手術の要する治療の対象に仕立て上げてゆく。 実際、産科医は出産という自然な生理現象を病気であるかのように見せかけ、手術を行っている。 ひとたび治療を受ければ、後遺症を抑える治療がまた必要となり、あげくのはてに何度も治療を繰り返す羽目になる。

 不思議なことに、産科医は人を害する治療を行うことで高い評価を受けている。 そんな人を害する処置を最初にやった張本人は、その産科医なのだ。

 医者が出産に介入するきっかけはピンセットである。 十六世紀、イギリスのチェンバレン兄弟という悪質な床屋外科医(当時は床屋が外科手術をしていた)は、分娩室に大きな木箱を持ち込んでいた。 木箱を開けるときは周囲の人を退室させ、陣痛にうめく産婦には目隠しをした。 箱の中身が世間に知れ渡るようになったのは、十九世紀になってからだった。 箱の中には大きなピンセットが入っていた。
 このピンセットは後に産科鉗子(かんし)と呼ばれるようになる。 分娩が長引くかどうかに関係なく、産科鉗子を使って胎児をつまみ出す鉗子分娩が考案されると、これを境に出産は手術の対象として扱われるようになった。

 出産への本格的な介入は、医者が自然の営みに興味を抱いたことから始まった。 医者が助産婦と競って勝利を収めると共に、出産を介助する役割は助産婦から医者にと移行した。 と同時に、出産の場所も自宅から病院へと移し替えられた。 出産が病気であるかのように装うため、これほど目的にかなった場所はない。 こうして男性である医者が出産を取り仕切ることになった。

 医者は、助産婦なら絶対にしなかったことをした。 解剖室で死体を扱った後、手を洗わず産科病棟に赴き、そのまま分娩に立ち会ったのだ。 当然、助産婦の時代と比べて、母親と赤ん坊の死亡率が急上昇した。
 十九世紀の半ば、ハンガリーにイグナツ・ゼンメルワイスという勇気ある医者がいた。 母親と新生児の死亡率が高いのは医者に原因があると考え、医者が病気の担い手になっていることを指摘した。 しかし、医学界から追放されて精神病院に送られる羽目になった。
 その後、医者が手を洗って出産に立ち会うようになると、母親と赤ん坊の死亡率は激減した。 だが、その功績がゼンメルワイスに与えられることはなかった。 医学界が横取りしたのだ。

 その後、産科医の権力はますます強大になった。 産婦を麻酔によって意識不明にできるようになったからだ。 当然、産婦は意識がないので息むことができず、自力で子どもが産めない。 こうして産科鉗子が普及し、鉗子分娩が定着して現在に至っている。
 陣痛が始まると産婦は鎮痛剤を投与され、陰毛を剃られ、両足を左右の支脚器に乗せられ、点滴と分娩監視装置につながれる。 こうした仕掛けによって、産婦は手術体制に組み込まれる。 その状況を無駄にしないために手術が考案されなければならなくなった。 それが絵陰切開(えいんせっかい)なのである。
 膣がもっと広がるように外陰部と肛門との間の部分をはさみで切る処置は、出産現場では当然のように行われている。 そのため、産科医はもちろん、大多数の女性もそのことに疑問を感じていない。

 医者は絵陰切開を正当化するために、「あらかじめ絵陰を切っておけば、赤ん坊の頭と両肩が出るとき起こりやすい裂傷よりも傷口がまっすぐで単純だから修復しやすい」と主張する。 だが、見落とされている事実がある。 もし産婦が意識不明にさせられず、出産に関する適切な知識と豊かな経験のある人に介助してもらい、心身ともに出産の準備が整っていれば、息む方法とタイミングがはっきりわかるから、赤ちゃんが出てきやすくなるのである。 産婦が意識のある状態でゆっくり時間をかけて分娩に臨めば、絵陰に裂傷が生じることはあまりない。
 もともと膣は、大きく広がって赤ん坊が出てきやすいようにできているのである。 たとえ絵陰に裂傷が生じても、切開創より自然裂傷のほうが傷口の直りが早く、不快感も少ないことがはっきりしている。


帝王切開が考案された背景


 産科医は絵陰切開という簡単な手術で満足するはずはなく、さらに過敏で危険なことに挑戦した。 なんといっても、分娩室という舞台には、異常なことが起こりかねないという気持ちにさせるものがある。 ししてそのような異常に対しては医療処置が必要であり、しかも、過敏であればあるほどいい。 医者はそのように考える傾向がある。

 分娩室の実態は保育器の設置によって巧妙に取り整われているが、そこは紛れもなく手術室である。 だから、産科医はその場にふさわしい本格的な手術が行われるべきだと考えている。 その結果、現代産医学は絵陰切開を超えて、さらに不気味な発展を遂げた。
現在、アメリカでは帝王切開が流行病のように蔓延している。

 従来、分娩の監視は、産婦の腹部越しに聞こえる胎児の心音を聴診器で聴く方法が一般的だったが、最近では、陣痛の際に胎児の頭皮に取り付けた電極を通じて心音を聴くようになっている。 しかしそれこそが帝王切開の蔓延を招いている。 胎児の状態に関係なく、モニターの画像が異常を知らせれば、産科医はすぐさま産婦の腹部を切って赤ん坊を取り出す。
 産科医は「奇跡を行った」と賞賛される。 命を死の淵から救った人物のように見えるからだ。 しかし、聴診器を使用する従来の方法に比べて、分娩監視装置を装着された産婦の場合3倍〜4倍の確率で帝王切開が行われている。 産婦が帝王切開を望まない時もある。 そんな時、産科医はモニターの画像を指差し「出産に対してわがままを言ってはいけません。 異常を知らせる信号が出てますよ」と諭す。 それで効き目は十分である。

 産婦が分娩監視装置を拒まなければならない理由は、それだけでない。 胎児の頭皮に電極を取り付けるためには、人工的に卵膜を破る必要がある。 その結果、胎児の心拍が急激に減少してしまうのである。 分娩監視装置を使って生まれた子どもは、その後の人生で行動面や発育に問題が生じてくると指摘する研究発表もあり、その確率は装置を使わない場合と比べると65%も高くなっている。

 産科医が「出産に際してわがままを言ってはいけません」と言うのには、実は隠れた事情がある。 多くの病院では、産科医の都合を優先して陣痛誘発によって出生時刻を調整して九時から五時までに出産させることが習慣になっているのだ。 
 陣痛誘発とは、陣痛が始まるのを待たずに陣痛促進剤を使って人工的に陣痛を起こす。 産科医はあらかじめ計算して出産予定日を算出するが、六週間もずれることがある。
 そこで赤ん坊が産道を通過する準備が出来ているかどうかに関係なく、産科医の都合が優先され陣痛促進剤が投与されることになる。胎児はまだ生まれる準備が出来ていないから、モニターの画像に異常が現れるのは当然である。 陣痛誘発を行うと帝王切開に切り替えられることが多いのは、そういうわけだ。

 未熟児出産に伴う肺結核、発育不良、知的障害は、陣痛誘発によってさらに起こりやすくなる。 新生児の集中治療室に収容されている赤ん坊の4%は、陣痛誘発によって生まれてきた赤ん坊である。
 陣痛促進剤の被害者は新生児にとどまらない。 母親も集中治療室に入れられることが多い。 帝王切開で子どもを産んだ女性の半数は手術の後遺症に苦しみ、それが原因で死亡する場合も少なくない。 しかもその死亡確率は経膣分娩の26倍である。

 こうしてみてくると、分娩監視装置という名称は適切でないのでやめて、母と子の「分断致死装置」に改称するのが適切であろう。


医者は医学の進歩という幻想の中で、難病を作り出す


 帝王切開の場合、たとえ妊娠の正常期間を経て普通の大きさで生まれても、呼吸窮迫症候群(別名:ヒアリン膜症)と呼ばれる重篤な呼吸器疾患の危険性がつきまとう。 現代医学では原因不明とされ、時には赤ん坊の命を奪うこともある難病で、適切な治療法がまだ確立されていない。 以前、この症状はたいてい未熟児にしか見られなかった。

 この難病の原因を説明しよう。
 通常分娩では、赤ん坊が出てくるときに子宮の収縮によって胸部と肺が絞り込まれ、肺にたまっていた体液と分泌物を気管支経由で口から吐き出すことが出来る。 ところが帝王切開で生まれると、この一連の経過が欠落してしまうのだ。

 こうした事故の研究報告の中で、産科医が慎重に帝王切開を行えば、呼吸窮迫症候群の発生率を少なくとも15%以上減らすことが出来る。 もし産科医が陣痛促進剤の使用を見合わせて、胎児が十分発育するまで待てば、この病気で苦しんでいる約40000万人の赤ん坊のうち、少なくとも6000人は発症を未然に防ぐことが出来たと推測している。

 アメリカでは、陣痛誘発と帝王切開は減るどころかますます増えている。 かつては、帝王切開の比率が出産数の4〜5%を超えると、病院は原因究明をしたものだ。 しかし、その比率が約25%を超える現在、病院は何の調査も行ってはいない。 
そして、その比率が50%近くにまで達している病院すらあるのだ。

 世間では、医学は常に進歩していると考えられている。 新しい手術が開発され、その効果が立証されれば、日々の医療に応用されて奇跡を生み、奇跡がさらに医学を進歩させてゆくといわれているが、全くの見当違いである。 

 手術は三つの段階を経るが、そのどれをとっても進歩とはまったく関係ない。

   第一段階:歓迎
     新しい手術は熱狂的に歓迎される。 未知の技術だから本来は疑いの目で見られるはずであるが、
     現代医学ではそうならない
     その手術が技術的に可能であることがいったん証明されると、ひたすら熱狂的に迎え入れられるのだ。

   第二段階:疑問
     その手術が行われるようになってしばらくたつと、危険性が明るみに出る。 ほとぼりが冷めてきたころになって、
     ようやく疑問の声が上がる。

   第三段階:この段階については、心臓バイパス手術(冠動脈バイパス手術)を例にとって説明する。
     心臓バイパス手術は最高級の評価を受けている。 
     心臓の周囲を取り巻いて心臓組織に酸素や栄養を供給する冠動脈が脂肪で詰まっている場合、
     そこを迂回するように新たなバイパスを通す手術である。

 この手術が開発されたことで、アメリカの国民病である心臓発作を阻止できると誰もが思った。 だが、こんな見掛け倒しの手術で根本的な解決が望めるはずがないのである。 しかし、今でもこの手術を受けるために何万人もの患者が順番待ちをしているが、その一方でこの心臓手術を疑問視する人も増えている。
 心臓バイパス手術が外科医の思惑通りの結果を出せないのである。 医療の関係機関が7年間にわたり、心臓バイパス手術を受けた1000人以上の患者に予後調査をしたところ、次のことが判明した。

  ● 左主幹冠動脈疾患という特殊な病気を除いて、この手術には有用性がない。
  ● 手術と薬物療法を比較すると、死亡率に開きはない。
  ● 軽症患者の場合、治療から4年が経過した時点で、手術を受けなかった患者のほうが
     手術を受けた患者より生存率が上回った。

 また、患者が手術を受けたあとでも心電図検査で以上を示したいることと、手術以外の治療を受けた患者と同様、ふたたび心臓発作を起こす危険性が高いことを指摘する研究もある。

 たしかに心臓バイパス手術は狭心症の痛みを和らげてくれるようだが、それは自己暗示か、神経経路を手術で切断したことのよるものとの推測が支持されてきている。 しかも、大きな落とし穴がある。 やがてバイパスそのものが詰まって手術前の状態の戻る恐れがあるのだ。
 心臓病に最も効果のある方法は、食生活の抜本的な改善である。 心臓病を患う人の普段の食生活は典型的な高脂肪型だが、脂肪の摂取は全摂取カロリーの10%以下に抑えるべきである。 そして、食事療法に加え徐々に運動量を増やしていく必要がある。 この二つの方法の組み合わせこそが、心臓病の諸症状を緩和し、本当の意味での治療を可能にすることが実証されている。

 以上のことから心臓バイパス手術は第三段階を迎える。 それは廃止である。 とはいえ、手術は創簡単に廃止されるものではない。とくに心臓バイパス手術のように莫大な利益をもたらす手術であればなおさらである。

 脂肪で詰まっている5センチか8センチの部位を迂回したところで、全身の血管の99.9%は詰まったままであることは、あまりのも明らかだが、この手術はいまだに人気を博している。 たしかに手術は儲かるし、外科医の地位もそれで高まるが、手術には患者の命がかかっていることを忘れたはならない。。


儀式的要素の高まる手術、本当の理由は何?

 
 手術が見掛け倒しのなったくらいで、現代医学が手術を廃止することはない。 しかし、現代医学の手術の大半は、何年も前から見掛け倒しであることが明るみに出ているのだ。 手術に有用性を見出すことは困難だが、手術は現代医学教の儀式であるから廃止されることは決してない。 儀式として代表的な手術を三つ挙げておこう。

  ○ まずは、扁桃摘出手術。 この手術は有用性はないから、2000年前に廃止されるべきだったが、
    今でも頻繁におこなわれる。
  ○ 次に、斜視矯正手術。  この手術にも有用性は認められない。
     眼科医は「程度は軽くても、子どもの斜視は手術で矯正しないと、いずれどちらかの目が失明します」といって
    親を驚かす。
     だが斜視であっても眼科医いかない人も大勢いるし、眼科医の脅し文句が本当なら、
     国中、片目が不自由な人たちであふれかえ っているはずである。
  ○ 第三は、心臓バイパス手術。 この手術が過大評価されていることはすでに指摘したとおりである。
     しかし、現代医学教の儀式として執り行う医者は、有用性のない技術を駆使して、他の心臓病に対しても
     新しい技術と称して開発に明け暮れている。

 二百年前、ジョージワシントンの時代には、ヒルを治療に使っていた。 現代医学のがん手術も未来の人たちの目には同じくらい恐ろしいものに映るだろう。
 がん手術が非合理的であることを1950年代に指摘した医者がいる。 イリノイ大学のウォーレン・コール博士は、患者の抹消部分の血液を検査して、手術の後でがん細胞がすでに転移していることを立証した。 だが、他の医者は、「がん細胞は転移したが、全身の他の部位はがん細胞を阻止できる」と反論した。 しかしその理屈は論理矛盾を犯している。 もし全身ががん細胞を阻止できるなら、誰もはじめからがんにはならない。
 一部の医者は、「がんと闘う技術が開発されて、がん手術の存続が脅かされている」と主張するが、その理屈は逆である。
世間が新しい治療法に夢と希望を託すのは、がん手術が失望の繰り返しだからである。 とはいえ、外科医はそれを絶対に認めようとしない。

 あまりに多くの手術が行われている原因について質問を受けるが、手術のやりすぎを非難する理由は、究極的にひとつしかないが、医者がそれを正当化する理由は無限にある。
 手術のやりすぎを非難する理由とは、それが患者に苦痛を与え、命を危険にさらすだけでなく、治療費の無駄遣いになるからだ。 しかし、現代医学は、そんなことをいっさい考慮しない。 医者が手術のやりすぎを正当化する理由とは、そのどれもが現代医学教の教義と一致するからだ。

 手術は患者の症状を改善し、病気を取り除くという建前で行われているが、手術には隠れた目的がある。 それは医学生の貴重な教材として、人体を使っていろいろな実験が出来るからだ。

 私がイリノイ州保健福祉省の小児科上級顧問をしてたころ、心臓に障害を持つダウン症児に行われる手術をやめさせた。
この手術は脳に酸素を供給することを表向きの理由としていたが、本当の狙いは、医学生に心臓手術の実験台を供給することにあった。 その証拠に、ダウン症児がこの手術を受けても脳に改善は認められないし、執刀医もそれをよく知っている。 この手術は根本的に間違っている。 しかもその間違いは、多くのダウン症児を死に至らしめるほど致命的な間違いであるのだ。

 金銭欲も手術のやりすぎを招く原因である。 経済的な理由が全てとはいわないが、もし不要な手術をすべて廃止すれば、外科医のほとんどは路頭に迷い、正直な仕事を探さなくてはならなくなる。
 外科医は手術で生計を立てている。 執刀数と関係なく安定した給与が支払われる定額払い制では、出来高払い制と比べて子宮摘出手術と扁桃摘出手術が三分の一くらいしか行われていない。

 アメリカでは外科医の数が現在の10分の1程度なら、不要な手術はかなり減るだろう。 アメリカ外科医師会ですら、「外科の専門医は五万人から六万人、それに研修医が一万人いれば、今後半世紀にわたる必要な手術が余裕を持って行える」と認めている。
 この発言が現実になれば、約10万人いる外科医の半数近くが経済的に追い詰められることになる。 つまり五万かそれ以上のメスが余分ということであり、それらが患者に多大な害をおよぼす凶器になっているのだ。

 医者の無知も手術のやりすぎの要因である。 婦人科を例にとると、そこで行われている手術の多くが不適切で旧態依然としているばかりか、あまりにも愚かしい慣習がまかり通っている。 こうしたことをすべて廃止すれば、子宮摘出手術を含めて婦人科の手術の大半はなくなるだろう。
 生理不順の女性がピルを服用すれば膣がんや子宮頸がんなりやすいことぐらい、どの医者もよく知っているはずだ。 生理不順の原因によっては、ピルの服用は生理不順の10倍以上も危険である。 しかし、どの女性がそれに該当するかを、ピルの服用を勧める前に見極めようとする医者は皆無に近い。

 ある女性は、ピルの危険性について何も説明を受けないまま、数年にわたって使用していた。 彼女は、ピルの服用後の最初の生理でひどい出血を経験した。 これはピルを飲んではいけないことを知らせる危険信号だったのだ。 しかし、細胞診で異常が明らかになったときですら、婦人科医はこんなことをいったという。
 「心配はいりません。いざとなれば子宮はいつでも摘出できます」
彼女が次に訪れた婦人科医は別の診断をした。
 「比較的簡単な手術ですが、今すぐやらないと数年以内に間違いなく子宮摘出手術を受けることになります」
その比較的簡単な手術も最初の婦人科医がピルの危険性を説明していれば、避けられたはずなのだ。

 金銭欲と無知もさることながら、手術のやりすぎを招く最大の要因は、信念の問題だ。 医者は手術に意義を見いだし、メスで人体を切り刻むことに魅力を感じる。 だから、その魅力を堪能すべく、あらゆる機会を利用して患者を手術台へといざなうのである。

 医者にとって、手術は進歩を意味する。 進歩は医者に優越感を与え、他の医者を凌駕したという特別な意識に浸らせてくれるのだ。

 アメリカの医者は可能であれば何でも実行に移す。 その際それをすべきかどうかはほとんど考慮されることはない。 準備が整い、実行可能であれば、その手術は正当な手術に違いない、あの医者より一歩も二歩も先に進めると錯覚し、手術が良いと自己判断してしまう。 
 
 だからこの国の医者は、心臓バイパス手術、扁桃摘出手術、乳房全摘手術はもとより、性転換手術まで行うのである。

 
不要な手術から身を守るには


 医者の手術振興から身を守り、自分の体を切り刻まれないようにするためには、まず、知識を身につけ必要がある。 自分の病気については、医者の知識を上回る努力をすべきだ。 図書館に行けば、本や雑誌、機関紙、専門書などから必要な情報を得られるだろう。
 扁桃摘出手術、子宮摘出手術、ヘルニア手術のようにひんぱんに行われている手術を勧められたら、とくに警戒が必要だ。 医者は手術が人体に害をおよぼすおそれのある治療とはみなさず、必ず何らかの効果がある治療だと考えている。 患者は、医者が絶対必要なときしか手術を勧めることはないなどと思ってはいけない。

 手術を勧められたら、すかさず次のように問い返すといい。
  「この手術に期待できる効果は何ですか?」
  「どうすればその効果が得られるのですか?」
  「手術を受けなければどうなるのですか?」
  「手術以外の治療法はないのですか?」
  「手術で期待どうりの効果が得られない可能性はどれくらいありますか?」

 医者から答えを引き出したら、それについてじっくり考える必要がある。 深く掘り下げて考えれば、医者が言っている矛盾に気が付くはずだ。 それが答えである。
 また、主治医以外の医者の意見を求めることも重要だ。 ただし、主治医と同じ病院や系列病院の医者に意見を求めても意味はない。 中立の医者を見つけ、主治医にした質問と同じ質問をするといい。 意見が違っていればそれを主治医に報告し相談すべきだ。
 それでも納得できなければ、主治医に頼んでその手術を行っている複数の医者に協議してもらうといい。 大げさだと思うかもしれないが、自分の体が切り刻まれるかどうかの瀬戸際だ。 3〜4人ぐらいの医者に意見を聞くぐらいのことは当然である。 

 現在の医療は手術のやりすぎだ。 主治医に勧められている手術も不要である可能性が高い。 「手術しか治療法がない」と医者が言ったときは要注意だ。 その判断が間違っていることが多いし、そもそも手術が一番適切な治療法だという考え方に、誤りがあるのかも知れない。 もしかすると何の異常もないかもしれないのだ。 自分で集めた情報を医者にはっきりと伝えるべだ。 医者の反応から何かがわかる。 また、友人、隣人、家族にも意見をもとめるといい。

 こうして意見を聞いたうえで、手術は不要と判断したら、すぐにその医者と縁を切るべきだ。 申し訳なく思う必要はない。 
「手術は受けたくありません」と宣言するのが最も明快だが、言いにくければ「かんがえておきます」と言葉を濁してもいい。
 医者にしてみれば、手術を受けるように説得してきたのだから、いまさら立場を変えるわけにはいかない。 また手術を拒否した患者を一人失うことになるが、「儲けそこなった」と思うだけで、後悔もしないであろう。


手術を受けると決めたとき


 手術を受けることを決心した場合も、横になってただ待てばいいというわけではない。 「誰が執刀しても同じです」という医者もいるが、それは違う。 医者の技量の差は大きい。 例えば家の改装のできばえは職人によって大きく違うのと同じだ。 胆嚢の摘出手術にしても、技量の違いが成否を分ける。 

 「手術を受けなくてはならないが、外科医の選び方がわからない」という質問をよく耳にする。 しかし、手術を受けなくてはならないのは緊急の場合だけだ。 例えば、事故にあって手術を受けるとき、悠長に外科医を選択している状況ではない。 手術の際の医者を選択できるような緊急事態でないなら時間は十分にあるから、どの外科医が適任かをじっくり選ぶべきだ。
 外科医を選ぶ際には次の質問をするといい。
   「先生がこれまでに執刀した手術の数は?」
   「成功率は?」
   「後遺症の確立は?」
   「死亡率は?」
   「術中・術後に死亡した患者の数は?」
そして、こうたずねるといい。
   「この手術を受けた患者を紹介してください。その人たちに体験を聞いてみます」
特に勧めたいのが次の質問だ。
   「もし先生が出張などの事情で執刀できない場合、どの外科医を推薦されますか?」
あるいはこんな風でもいい。
   「先生自身がこの手術を受けるならば、どの外科医に執刀を依頼されますか?」
この質問によって、勧められていた手術よりも簡単な手術で済むことがある。 そして再度、質問すると。
   「本当に手術が必要なのですか?」と念を押すといい。

 いったん手術を受けると決心したのだから無駄なように思えるかもしれないが、もしかすると貴重な情報が得られたり、手術以外の治療法を知っている医者にめぐり会えたりするかもしれない。
 複雑な手術なら、その権威に電話で尋ねてみるといい。 遠方に住んでいて会いに行けないのなら、近くの医者を紹介してもらうことも出来る。 また、友人や家族の協力を得て、ふさわしい医者を探してもらうこともいい。 ただし、紹介された医者の評判がどんなによくても油断するのはまだ早い。 説明を聞いてわからない点は、そのままにせず問い返すべきだ。

 手術の後も注意を怠ってはいけない。
 手術が計画通りいかなかったり後遺症が現れたりすれば、急いで検査を受けるべきだ。 
 薬の副作用と同様、一過性で無害な症状もあるが、場合によっては致命的なことがある。

 予後の問題で別の医者に相談するときは次の質問をするといい。
  「私の主治医が執刀したこの手術について、率直な意見を聞かせてください。
   場合によっては、私の主治医に対し医療訴訟を起こすことも検討しています」
返答しだいでその医者が信頼できるかどうかがわかる。 簡単に医者を信頼しない態度が、手術のやりすぎから身を守るうえで不可欠である。

 なんにしろ、自分の体が切り刻まれようとしているのだから、その医者が本当に信頼するに値するかどうかを見極めるためには、いくら注意してもしすぎることはない。


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