医者が患者をだますとき


第9章 新しい医学

家族と地域社会を中心に


 新しい医学は、現代医学教を打破するための私の構想である。
 これまで、なぜ人びとが現代医学から身を守らなければならないのか、そしてそのためにはどうすればいいのかを説明してきた。 具体的には、医者の指示の妥当性を判別する方法、医者を識別する方法、医者と対決する方法、医者の危険な医療行為を避けて健康を維持する方法である。

 読者の中には、これらの方法のうち、すでにそのいくつかを試した人がいるかもしれない。 もしひとつでも試したなら、自分の身を守る以上のことを成し遂げたことに気付いたはずだ。 そう、あなたは現代医学を覆したのである。
 私は読者に対し、健康について同じ考え方をしている人たちと連帯するように説いてきた。 現代医学教の殉教者になるのではなく異端者になることを訴えてきた。

 重大な課題に取り組まなければならないときがある。 新しい医学に向かって一歩でも踏み出せば、もう立ち止まることはできない。 引き返してふたたび自分の健康を医者にゆだねるか、そのまま前進し続けるか、道は二つに一つしかない。
 まず、自宅で子どもを産み、母乳で育て、子どもに予防接種を受けさせず、職場や学校の健康診断を拒否することだ。
 次に、薬を使わずに自分や自分の子どもを診察してほしいという意思表示をし、手術を勧める理由を医者に問いただすことだ。

 わざわざ闘争宣言をする必要はない。 ただ行動で示せばいい。

 現代医学が個人とその家族の健康に介入しようとしてくるかぎり、人びとが自らの責任において自分と自分の家族の健康を管理しようとすることは一種、政治活動的といえるかもしれない。 新しい医学では、家族が健康の基本であり、地域社会を家族の集合体として重視する。


生命を祝福する医学


 新しい医学が目指しているのは、生命の核心である。 それが生命の質ということになるが、そうなると新しい医学も宗教的要素を持つことになる。

 現代医学は生と死、生命の意味と言った問題を扱い、それ自身が宗教になった。 その惨憺(さんたん)たる実態の原因は、薬剤や機械という生命のないものに基づいて教義を作り上げたことにある。 不幸なことに、現代医学は偶像を崇拝する宗教に成り果てたのだ。 さらに現代医学は、人生の諸問題を扱う伝統的宗教を攻撃してきた。 だが、新しい医学にとって、それは二度と繰り返してはならない過ちである。

 私は本書の中で、現代医学教をできる限り排撃してきた。
 では、現代医学に変わる新しい医学とは、どのような医学だろうか。 これから説明しよう。

 まず、医学現場から悪い医者を一人残らず追い出し、新しい任務を遂行するにふさわしい医者を送り込むことが重要だ。

 信仰は宗教にとって最優先される課題であるから、新しい医学にも信仰が欠かせない。 だが、新しい医学では医者、薬、医療器械、医療技術をあがめない。 信仰の対象は生命そのものである。

 新しい医学は生命に敬意を払い、生命を慈しむことによって現代医学を打破することを使命とする。
 しかし、患者と伝統的宗教のあいだに割って入るようなことは決してしない。

 価値観とは、物事の根本的な善悪を判断する規範意識である。 それはどんな人にとっても不可欠である。
 とくに価値観などないと言う人ですら、価値観が不要という価値観を持って生きている。
 人は価値観から逃れて生きていくことはできない。
 そこに宗教的要素が求められる素地がある。
 宗教は様々な価値を順序付け、複数の選択肢があるときに選ぶべき行いを指し示す。

 だが、現代医学は従来の価値観を破壊した。
 現代医学は人びとにこう呼びかける。
 「人はもはや、従来の価値観にとらわれる必要はない。
  生活習慣が原因で病気になろうと、現代医学はそれを直すことが出来る。
  善悪の判断を迫る道徳から人々を解放しよう。
  その代わり、現代医学の倫理をひたすらあがめなさい」

 人間である以上、生物学の法則を避けて通ることはできない。 生物学の法則とは、自然の摂理だ。
 生物学こそが、新しい医学の倫理と価値観である。

 一方、新しい医学が罪として批判する価値観の多くは、現代医学教が認可し推奨してきたものである。
 具体例を挙げよう

  ● 妊娠中の体重増加を制限すること
  ● ピルは妊娠より安全であると誤解させ服用させること
  ● 定期健康診断を毎年受けること
  ● 栄養に対して無知であること
  ● 子どもに予防接種を定期的に受けさせること
  ● その他、現代医学が健康に貢献するとして勧める、さまざまな行為

 新しい医学が以上の項目を「罪」として戒めるのは、それらが生命を脅かす危険性があるからだ。

 人体に宿る生命は、適切な条件さえ整えば、自然治癒力という素晴らしい自己治癒能力を発揮する。
 新しい医学が人びとに前述の行為が罪だと認識させる目的は、
 自然治癒能力が最大限に高まる条件を整備するためである。


豊かな人生を送るために


 現代医学が医療機器に依存しただけの医学であるのに対して、新しい医学は人びとに希望を与える医学である。 現代医学が見せかけだけの無意味な儀式を行うのに対し、新しい医学は有意義な行いによって生命を祝福する。

 新しい医学が目指しているのは、最終的には自分の仕事をなくしてしまうことである。 だから、人びとには、医者への依存を少なくしてゆくように指導する。 人は医者に頼らず生きてゆくことを学ばなければならない。 頼みの中心は医者ではなく、生命を祝福する個人、家族、地域社会であり、それらが三位一体となってはじめて生命愛・勇気という健康の泉が湧き出るのだ。

 心身の健康管理は、一人ひとりに課せられた重大な責任である。 ときに食生活は大切だ。 炭水化物、タンパク質、食物繊維、ビタミンなどの栄養素のことだけを考えていればいいというわけではなく、純粋な食べ物を食べ、純粋な水を飲むことを心がけるべきだ。

 人間も自然の一部であり、自然と調和して生きなければならない。 そのためには、どんな食生活が自分に最も適しているのかを十分知っておく必要がある。
 口から入るものは人格に多大な影響を与え、口から出るものを左右することすらある。
 他の欲求についても、食生活と同様、バランスを心がけなければならない。 ある意味で、生き方に関って好ましい影響をもたらすものは、すべて「栄養」といえるし、その選択の責任は個人にゆだねられている。

 正しい「栄養補給」ができるかどうかは、心身の健康の維持、増進にかかわる重大な問題である。
 テレビの前に座って何時間も軽薄な番組を見ることは、
 人生を豊かにする栄養補給ではなく、貴重な時間を浪費するだけである。
 こうした時間は、自分と周囲の人を豊かにする前向きな活動に当てることが望ましい。
 自分の生活を豊かにする活動については、五感を鋭く熟慮するべきだ。

 
天職とは、すべての人が享受できるものである

人はみな長生きをし、幸福で実り豊かな人生を楽しむことを

 天職として授けられ

それをまっとうするように定められているのだ



全ては家族から始まる


 新しい医学は、誕生、結婚、記念日、病気、臨終などの人生の意義深い節目となる機会に、一族が寄り集まるように呼びかけること。 効率優先の社会では、そこに働く人たちの健康よりも生産性が重視されているから、要求されるとおりの仕事をしようとすると窮地に陥りかねない。

 仕事にはバランスの取れたアプローチが必要だ。 人びとは人間らしい充実感の得られる活動をめざして人生を設計すべきである。 その際に優先されるのは生命であり、果てしない出世競争ではない。 要は、人生の意義深い節目に参加することが出来るように時間を有効に使い、同時に職業人としての義務も果たせるよう工夫するということだ。

 新しい医学の中心は家族である。 家族こそ、人びとを企業社会や現代医学のような不健康な組織から守る砦である。
 たとえば、重労働が原因で仕事をやめなければならないとき、家族は新しい職が見つかるまでその人を暖かく支えるべきだ。

 こうした考え方は、家族を財産でなく負債とみなす風習に染まっている人たちには違和感を与えるかもしれない。
 現代社会の目的は効率優先だから、家族は父と母、またはそのどちらかと子どもが一人か二人の核家族のほうが好都合かもしれない。 こうした都合のよさだけを求める現代人は、親離れ、子離れ、別居、離婚などがはびこり、核家族化に拍車をかけ、社会秩序を乱している。

 しかし、本当の意味での家族を求めるのなら、子どもから高齢者まで各世代の血縁者が仲良く一緒に暮らし、大切な人生の節目を祝福するという姿が望ましい。 互いに結束して喜びを分かち合い、効率優先の厳しい現実から身を守ることが出来る家族なら、現代医学を含めてどんな組織も、その家族の人たちの生命を脅かすことはできない。


生命に捧げる医学


 新しい医学は新しい生命の誕生とともに始まる。 第一の戒律は「妊婦は妊娠中の体重を気にするな」である。 注意を向ける対象は食事の質だ。 最も純粋で栄養価の高い食品を食べ、母体の生理を乱す薬はいっさい服用すべきではない。 現代医学ではほとんどの医者が「薬と仲良く付き合いなさい」と言って不要な薬を押し付ける。 同様に、エックス線検査も不要だ。

 新しい医学は生命の捧げる医学である。 赤ん坊の誕生は人生最大の出来事であり、家庭こそが神聖な教会であるから、
危険に満ちた病院ではなく、家庭の愛情と支えが得られる自宅で出産することが望ましい。 家庭に新しい仲間が加わるという記念すべき出来事は、全員が寄り集う場所で行うほうがふさわしいのである。

 赤ん坊が産まれたら、新しい仲間が加わったことを家族全員でただちに祝おう。 新しい医学による「誕生の儀式」は、家族全員がご馳走を囲み、歌を口ずさんで、談笑のうちに祝福しあって行われる。
 赤ん坊が産まれたら母乳で育て、その後は家庭で準備した離乳食を与えればいい。
 市販の劣悪な加工食品は避けるべきだ。

 私はかつてラジオの番組で「育児に関するかぎり、一人のおばあさんは二人の小児科医の価値がある」と発言したことがある。 実際、育児については、小児科医は全く信頼できない。 専門家の意見は、それを証明するだけの根拠がないかぎり、無価値と判断するのが健全な姿勢だ。

 残念なことに、家庭崩壊を食い止めるためには、二、三世代前にさかのぼって伝統的な価値観を捜し求めなければならない。だが、歴史に裏づけられた家族の伝統が失われてしまった現在では、その伝統が受け継がれた家庭に生まれ育った友人や隣人の助けが必要になる。

 赤ん坊の誕生以降も家族にとって特別な出来事があれば、全員で祝うのが本来の姿である。 新しい医学では、「核家族」や「大家族」という表現はいっさい使わない。
 家族とは、血縁の者全員が揃っているものだけを指すからだ。 年齢に関係なく各世代の人々が家庭生活に参加し、家族が一番大切であることを理解しなければならない。 もし家族の誰かがやむ終えず入院するようなことになれば、他の者がすぐに駆けつけて寄り添うだけの強い絆が必要だ。

 死は誕生と同じくらい家族の絆を深める出来事である。 誕生、誕生日、結婚といった出来事が仕事や他の全ての用事に優先するのと同じように、家族の中の一人の死は肉親の全員が見守る中で迎えなければならない。
 孤独な死を迎えたり集中治療室でスタッフだけに看取られたりするような寂しい人生の最後は避けたほうがいい。

  人の一生は自宅で始まり、自宅で終わるべきものなのだ。

 
周囲の人びととともに

 
 これまで説明したように、現代医学はあらゆる方法で家族の絆や地域社会の連帯を断ち切ろうとしてきた。 それに対し新しい医学は、地域社会のつながりを重んじる。

 人はみな、同じ地球の地域社会で暮らす仲間だからだ。

 新しい医学が地域社会を必要とするには、いくつもの興味深い理由がある。 まず、破壊的で危険な現代医学から個人を解放するのは、一人の力では難しいということだ。 人はみな、仲間を必要としている。 現代医学に異を唱える運動を展開するならなおさらだ。

 地域社会は多くの家族が手を携えることで成り立っている。 最近では時代遅れとみなされがちな考え方だが、家族こそが一人一人の健康の源泉であることを忘れてはいけない。 地域社会も健康の源泉であるが、家族のような結束力がなく、ともすれば分裂してしまいがちだ。 しかしだからといって、地域社会にまで連帯を広げなくともいいということにはならない。 新しい医学を推進するためには、地域社会の連帯を強化し、社会全体に目を向けた活動が必要なのだ。
 地域社会を同じ信仰を持つ人びとから成り立つ集団と考えてみよう。 もちろんそういう集団を見つけられないこともある。 
その場合は、自分で仲間を作ることから始めてもいい。

 若い母親が「母乳育児をしたいのですが、自信がありません」という相談に来ると、私は「母乳育児をした近所の女性のところに相談に行くといいですよ」と話している。 大事なことは、自分と同じ価値観を持つ人と親交を深め、自分を支えて勇気付けてもらうことだ。

 新しい医学は、人びとに肉体や知性の面でも視野を広げることを求める。 倫理観や健康法について知識を吸収する必要がある。 一、二冊の本を読んでわかったと思うのは早計だ。 健康に関する本、現代医学の危険な傾向を指摘した本、長く受け継がれてきた伝統について書かれた本は出来るだけたくさん読むといい。

 新しい医学は生物学に基づく宗教的な行動・思想・倫理なのだから、その恩恵もまた生物学的である。 そして、その最大の恩恵は、低い乳児死亡率と健康で長い平均寿命だ。 感染症、アレルギー、がん、心臓病、糖尿病、中毒症状の発生率が低下して、健全な生活を送る人が増えるようになれば、離婚、自殺、うつ病などが減ってゆく。

 病気が減れば、医者の必要も減る。 病院に行く機会も減るから、医療費も減る。 医者は家族にとって友人のような存在となり、現代医学の医者のように畏敬すべき知識と技術を持った専門職とみなされることはなくなる。

 地域社会では、そこに住む人々が家族を負債でなく財産として考えるようになるから、家族の成員が増えて人口増加につながってゆく。 また、現代医学の呪縛から開放されたいと望む人も増える。

 しかし、数字には表れてこないもっと大切な恩恵がある。 それは、新しい医学が悲しみの医学ではなく喜びの医学であり、恐怖の医学ではなく愛情の医学であり、絶望の医学ではなく希望の医学だということだ。 新しい医学の儀式はすべて祝福である。 だから、誕生日や結婚などの人生の節目に血液検査を行って検査費用を要求したりすることはない。 そんな機会には、検査ではなくパーティーがふさわしい。

 自宅で赤ん坊を産むのは病院出産による危険を回避するためだけでなく、この祝福すべき出来事を家族全員で分かち合うためでもある。 母乳で赤ん坊を育てるのは、赤ん坊に哺乳瓶のゴム乳首を吸わせているときには得られない、本能的な喜びを母親がかみしめるためでもある。

 新しい医学は、現代社会を蝕んでいるうつ病に対しても健全な処方箋を提供する。 生命と喜びを追求する新しい医学は、人びとをうつ病から救い出す力を持っている。
 孤独、自暴自棄、欲求不満、疎外感が、うつ病を招く。 新しい医学は人びとをこのような状況に陥らせない。 家族や友人の誕生日や赤ん坊の誕生、結婚、やりがいのある仕事など、祝福すべきことがあれば、恐怖や孤独を感じたり愛に飢えたりすることはほとんどなくなるはずだ。 新しい医学は、人びとが互いに祝福しあえる地域社会作りをめざす。

 いったん新しい医学に参加し、自分と自分の家族の健康が医者に任せる重荷ではなく、幸せで希望に満ちた特権であることが理解できれば、人はさらに自由で幸せになることができる。

 しかし、現代医学の危険性を認識している人たちにとっては当然であることが、一般の人たちにはまだ正確に認識されてはいない。
 いままで私は、多くの人から次のような意見を聞かされてきた。
 「かなり革新的な考え方をしなければ、普通の人がこの医療革命に参加することは難しいでしょう。
  現代医学のために自分や身近な人がひどい目にあわないかぎり、
  医療行為のどこが本当に危険なのかわからないものです。
  勇気を奮い立たせるためには、まず、現代医学の恐怖を体験する必要があるのではありませんか」
 この指摘は当たっているかもしれない。
 本書はそのような疑問を持つ人に対する私の回答である。 これらの人たちには、医療被害にあう前に本書を読んでほしいと思う。 一人でも多くの人が現代医学に疑問を持ち、危険を未然に回避することを願ってやまない。

 もうひとつよく聞かれるのが「どうやってこの革命を始めたらいいのか?」という質問である。 この革命に参加したいのだが、どこに申し込めばいいのかわからないということである。 これは申し込む必要がない。 自分で意識を持ち新しい医学に参加しようと決めたら、自宅で今日から始めたらいい。

 家族は負債でなく財産である。 まだ独身なら、相手を見つけて結婚することを真剣に考えよう。 結婚しているのなら、今夜、行うべき最も「革命的」な行為は子作りに励むことだ。 そして、自宅で子どもを産み、母乳で育てる計画を立てることが重要である。 もし両親が健在なら、電話をして週末に訪れることを話し合うといい。
 大切なのは、人生の優先順位を決めることだ。 はてしない出世競争で得られる報酬は、自分や家族を犠牲にしてまで時間と労力を費やす必要があるだろうか。 今の仕事を続けていると、いつか心臓発作を起こして入院する羽目になってしまうのではないか、などなど。

 仲間作りは重要な活動である。 近所の主婦が母乳育児をしてるかどうか、またはしたことがあるかどうかを訊ねてみるといい。 子どもや高齢者をあしざまに言う人がいれば、その理由を問いただすべきだ。 昼食や夕食のときに、健康についていろいろ話し合ってみるのもいい。 ただし、それは議論が目的ではなく、意見の会う人を見つけるためだ。 そういう人が見つかれば、もっと親しくなって仲間の和を広げていくことが出来る。

 この革命がいつ終わるのか、それは私にもわからない。 しかし、私は勝利を収めつつあることを感じる。 
それは次のような瞬間だ。

 
 身近な人に影響を与えたとき、自分の家族と友人が、健康は偶然の贈り物ではなく、

 生活改善によって得るものだと気づき、その喜びを感じたとき。

 自分や家族の誰かが自宅で出産し母乳育児をするとき。

 医者の手術の指示を検討したすえに手術を回避し、自然な治療をしてくれる医者を探したとき。


 
新しい医学の勝利の瞬間

 
 この夏、私に初孫が生まれた。 娘が3600グラムの元気な女の赤ん坊を産んだのである。 この赤ん坊は、予定通り我家で産まれた。 立ち会ったのは私のほかに娘の夫、母親、それに教え子のメイヤー・アイゼンスティン医師だった。

 陣痛も分娩もほとんど問題なく経過して、5時間程で出産は無事終了した。 孫が生まれたあとで親戚や友人がお祝いに駆けつけてくれた。 彼らは玄関で私とほんの少し言葉を交わしただけで、待ちきれず孫に会いに行った。

 娘一家は5週間ほど私の家に滞在してカナダの新居に引っ越したが、それまでのあいだ、私は娘がまだ寝てるときに、妻が孫を抱いて椅子に腰掛けているのを見ながら、毎朝出勤する幸せに恵まれた。
 夏の夕方、病院に立ち寄って自分の孫娘をガラス越しに覗き見るのではなく、家に帰って夕食を食べながらずっと見ることができた。

   これこそ、私が勝利を収めた瞬間だった。  私はそう断言する。

 私は新しい医学を実践している仲間が世の中で最も健康なように思える。
 ラ・レーチェ・リーグを含む組織に加入しいている人びとが数万人の会員と手をつなぎあい、ネットワークの輪を広げている。
 この人たちには各地に仲間が大勢いる。

 
私の家族を含めてこれらの仲間は、自分の健康は自分で管理できることを実感している。

そして、明日に不安を感じることなく安心して日々を過ごしている。

これこそが新しい医学の勝利なのだ。

私はそう確信している。



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