医者が患者をだますとき


第2章 医者が薬を処方するとき

抗生物質は風邪に効かない


 私が医者になってまだ間もないころ、細菌性髄膜炎(さいきんせいずいまくえん)で苦しんでいた子どもたちに数時間おきにペニシリンの静脈注射をすると、刻々と奇跡な変化が起き、つい先ほどまで死の床にあった子どもたちが意識を回復し、数時間以内に刺激に反応し始めたのだ。 しかも、数日後には立ち上がって歩けるようになり、すぐに退院できるくらい元気になった。
 大葉性肺炎(だいようせいはいえん)の患者たちもかつては激痛に襲われ、高熱やひどい咳、呼吸困難、震え、悪寒、激しい胸の痛みなどの重い症状に苦しんで、回復した患者もいたが、多くの患者が死んでいった。 だが、ペニシリンの登場と共に、この病気でそれまでのように苦しみを味わうことはなくなり、熱や咳は数日で治るようになった。 以前なら生還できなかった患者が、荷物をまとめて歩いて退院していった。

 しかし、現在では事情が一変している。 細菌性髄膜炎と大葉性肺炎はあまり見られなくなった。 生命をおびやかすこうした病気に医者が直面しても、治療法が決まっているので、たいていは医師に代わって看護師が簡単な処置をすればいい。
 かつては大変に役立った薬だが今では非常に危険な薬となった。
 現在は多くの医者が風邪の患者にもペニシリンを投与している。 だが、ペニシリンが効くのは細菌性の感染症に限定され、風邪やインフルエンザのようなウイルス性の感染症には効果がない。
 ペニシリンを含め抗生物質は、風邪やインフルエンザの期間を短縮せず、合併症を予防せず、鼻やのどに存在する病原菌の数を減少させない。 要するに、抗生物質は風邪やインフルエンザには効果がないのだ。
 その代わり、発疹、嘔吐、下痢、発熱、アナフィラキシーショックといった作用をひき起こす。 しかも、発疹だけですむ患者はわずか7〜8%にすぎない。 また単球増加症の患者がアスピリンというペニシリン系抗生物質を服用すると、発疹を起こす確立はもっと高くなる。
 ペニシリンに対して激しい反応を起こす5%の不運な患者が、アナフィラキシーショックを起こして苦しんでいる様子は見るに耐えない。 心血管の虚脱、発汗、意識不明、血圧低下、不整脈などだが、本来、これらはペニシリンで治るはずの症状なのだ。

 危険な抗生物質はペニシリンだけではない。 
クロロマイセチンは、インフルエンザ菌による髄膜炎とチフス菌による腸チフスに効く薬である。 しかも、これらの病気はこの薬しか利かないことが多い。 とはいえ、クロロマイセチンには骨髄の造血機能に障害を起こすという高確率の致死的な副作用があり、しかもそれは決してまれではない。
 命にかかわる状況では、この程度の副作用はやむをえないリスクだが、子どもがウイルス性の咽頭炎、扁桃炎のように単なる炎症を起こしている程度でクロロマイセチンを投与するのはどうだろうか。 効果がないばかりか、骨髄の機能障害をひき起こして多量の輸血を含むさまざまな処置が必要になる。 しかも、それらの処置で完全に回復するという保証はどこにもない。
 にもかかわらず、医者は喉の炎症にクロロマイセチンを処方する。

 「テトラサイクリン」は外来診療所や開業医のあいだでたいへん人気があったので、「往診用の抗生物質」として知られるようになった。 各種の細菌性の症状に効果があり、危険な副作用がないと考えられているため、子どもから各年代の患者に幅広く投与されている。 だが、実はこの薬には重大な副作用があり、それを知っている人なら不用意に選ばないはずだ。

 この抗生物質の恐るべき副作用のひとつは、骨と歯に沈着物を形成することである。 骨への影響は正確に把握できないが、歯を黄色や黄緑色に永久的に変色させることを知っている親子は数十万人いや数百万人はいる。 風邪の症状を和らげるかどうかわからないのに、こんな代償を払うことになるとは、あまりにも理不尽だが、ほとんどの医者はそう考えず、薬の処方を正当化するため「風邪をひいてる子どもには二次感染の可能性がある」という。 だが、風邪をひいてた大多数の子どもたちには、この類の感染をしていた痕跡がない。

 その後、FDA(食品医薬品局)はテトラサイクリンの過剰投与にやっと気づき、この薬の添付書に次の警告を記載すすことを、製薬会社に義務づけた。
 「歯の発育期(乳幼児期から八歳のまでの間)にある子どもがテトラサイクリン系抗生物質を飲むと、歯が黄色、茶色、灰色に永久的に変色する恐れがあります。 この副作用は長期服用によって起こりますが、短期間でも連用することで起こることが確認され、歯のエナメル質が変性することも報告されています。 したがって、テトラサイクリンは、他の薬では効果がないと予想される場合と他の薬の服用が禁じられてる場合を除いて、歯の発育期にある子どもに処方してはいけません」

 しかい、この警告が医者に対して効果があるかどうかは疑問である。 なぜなら、医者は添付文書を読むことはめったになく、もし読んだとしても、その気になれば、警告を無視して使うことが出来るからだ。 しかも、この添付文書のように、重症患者に対してのみ副作用を上回るメリットがあると明記されていない場合、薬の過剰投与という医者の修正を阻止することは至難のわざになる。


抗生物質がひき起こす由々しい事態


 抗生物質の過剰投与は、副作用より恐ろしい耐性菌の問題が発生してる。 耐性菌とは、抗生物質が体内で特定の細菌との戦いを繰り返していくうちに、その抗生物質に対して耐性をもつ新たな細菌が変種として生み出され、それがさらにひどい感染症をひき起こす現象のことである。 
 細菌は適応力に富む微生物で、薬にさらされればさらされるほど、それ以降の世代の細菌はその薬に対して耐性を持ち、薬に負けない細菌になってゆく。

 かつて淋病の治療には少量のペニシリンの使用で十分だったが、現在では大きなペニシリン注射を二回も打たなければ治らない。 場合によっては、別の薬も併用しなければ打つ手がないことすらある。 
 フィリピンと西アフリカで発見された二種類の淋病の変種は、ペニシリンに対して完全な耐性を持っていた。 現代医学はこの変種の淋病に対抗するために、さらに強い抗生物質を開発した。 それがスペクチノマイシンである。 この薬はペニシリンの六倍も値段が高く、しかも重大な副作用がある。 だが、淋病はこのスペクチノマイシンに対しても耐性菌を生み出した。 こうして薬と細菌の戦いが激化するにつれて、細菌はますます強くなり、患者はますます衰弱し、治療費はかさむ一方である。
 もし医者が抗生物質の使用を激しく規制しなければならないという認識を持っていれば、こうした事態を招くようにはならないはずだ。 一人の患者がペニシリンなどの抗生物質を必要とするのは、一生のうちせいぜい三回か四回しかない。 しかも副作用の危険を冒す重症の場合に限られる。

 しかし不幸なことに、医者の認識不足か治療に対する手抜きか多くの医者が全国民に抗生物質を処方し続けてきた。 アメリカでは毎年800万人から1000万人が風邪の治療のために通院し、その人たちの約95%が薬を処方され、その半分が抗生物質なのだ。 この人たちは風邪に効かない治療に対してお金を払わせられるだけでなく、さまざまな副作用と致死的な感染症のリスクを背負わされているのである。
 かつて医者は治癒の担い手であったが、いまは病気の担い手になっている。 現代医学が過剰な治療を軽症患者にまで行ったため、重症患者の治療に対する有効な治療法を台無しにしたのだ。

 かつて多くの医者が携わった奇跡の医療が、いまでは患者に大きな被害を及ぼすようになった。


インスリンの投与が失明をひき起こす


 ここで、医学と危険な薬の歴史を振り返ってみよう。
 近代細菌学の創設者であるドイツのロベルト・コッホは、結核菌の培養液からある物質を抽出し、結核の治療に役立つと主張した。 しかし、数人の患者に注射してみると、容態が悪化して死者がでた。

 トロトラストという放射性造影剤が、肝臓・脾臓・リンパ節のエックス線撮影に初めて使用された。 この薬がわずかな量でもガンをひき起こすことが判明するのは、それから二十年後のことである。

 新しく開発された抗菌剤を投与された子どもたちが死亡した。 その後この薬が毒性の強い化学物質で汚染されていたことが判明した。

 不活化したはずのポリオウイルスを含んだソークワクチンが過剰投与され、罪のない人々のあいだに100人以上の死者と瀕死の重症者が多数発生した。
 サリドマイドという睡眠薬を妊娠初期に服用した女性たちから、ドイツで約3000人の奇形児、その他の国で約5000人にのぼる死産や重度の奇形児などの被害者が生まれた。
 トリパラノールという高脂血症治療薬は、白内障を含む多くの副作用をひき起こすことが判明し、市場から回収された。






 薬害が是正されるのは、その薬が市場から回収されるときか、製薬上のミスで規制強化されるときのいずれかである。
 しかし、薬害がもたらす悲惨な出来事は日常茶飯事であり、規制が徹底されていないのが実情だ。 規制強化の遅れもさることながら、逆に流通機構の強化は目覚しいものであり、大量の薬が製薬会社の工場から出荷され、医者の手を介して患者の体内に注ぎ込まれている。
その典型的な例を紹介しよう。

  ● レセルピン系の降圧剤は、乳がんの発生率を3倍に高める副作用があるにもかかわらず、いまだに使用されている。
  ● インスリンは、糖尿病患者の失明の一因であることが指摘されているにもかかわらず、「医学の奇跡」とまで賞賛され、
     いまだに使用され続けている。


副作用のために命を落とす人びと


 薬が医学という科学の純粋な産物であるなら、それを投与することは科学と合理性に基づいた良識のある行為になるはずである。 しかし、薬はたんなる科学ではなく神聖なものなのだ。

 キリスト教の聖体拝領の儀式で、信者が神父から聖なるパンとワインを口に含ませてもらい心身を清めるのと同様、現代医学教の「投薬の儀式」では、患者は医者から神聖な薬を授かって心身を清める。患者はこの儀式によって神秘的な体験をする。それは医者が患者の心身の状態を思うように変えられるという現象である。 もちろん、そのためには患者が医者の指示通りに薬を飲むという信仰心を持つことが前提となる。
 投薬の儀式で得られる薬理効果の大部分が医者の暗示による偽薬効果(プラシーボ効果)によるものである。 実際、偽薬効果が主な薬理効果であることが判明している薬があるほどだ。

 伝統的な宗教の儀式は人に害を及ぼすことはまずないが、現代医学教で医者が処方する神聖な薬は、違法薬物よりも多くの人を死に至らしめている。
医療監視団体の全国調査によると、
         麻薬・覚せい剤などの薬物乱用による死亡の割合は   26%
         処方薬の精神安定剤と睡眠薬による死亡のものが    23%
                                                  だという。

 しかし、この調査には、その他の処方薬の副作用で死亡した年間2万人から3万人に及ぶ患者の数が含まれていない。 
これだけ大きな開きがあるのは、医者が本当の死因を副作用によるものと認定せずにごまかすことがよくあるからだ。 たとえば、末期がんの患者が薬物療法の途中で死んだ場合、患者がもしその薬物治療を受けていなければ死ななかったとしても、
医者は「副作用死」ではなく「病死」と診断する。
 ボストン薬物監視合同委員会は、入院患者の副作用死の割合を急性疾患で1000人中一人強、がん、心臓病、アルコール性肝硬変などの重篤な慢性疾患で1000人中四人と報告している。

 ここで見落としてはならない重要な事実がある。入院患者の多くは通院の段階で処方薬を服用しており、その副作用が原因で体調を崩し入院する羽目になったかもしれないのである。
ある調査では、未然に防げたこれらの苦痛に対する医療費が少なくとも30億ドル(3000億円)を超えると推計している。

 
ステロイドの問題

 
 ステロイドは抗生物質と同様、本来は重症患者に限定して使用されるべき劇薬であったが、いまは軽症患者にまで投与されるようになっている。
 副腎は代謝を制御する人体最大の臓器であり、そこから分泌される副腎皮質ホルモンは体内のほとんどすべての臓器に直接的あるいは間接的な影響を与える。 厄介なのは、医者が処方するステロイドが、体内で分泌される副腎皮質ホルモンと類似した働きをすることだ。

 かつてステロイドの対象は、副腎の機能低下、脳下垂体の機能障害、紅斑性狼瘡(こうはんせいろうそう)、潰瘍性大腸炎、ハンセン病、ホジキン病、リンパ腫などの重症に限定されていた。 だが、いまでは日焼け、単球増加症、にきび、吹き出物、発疹のような普通の症状にまで使われている。 しかも、それらの病状に対する診断は正確さを欠くことが多い。
 医薬品を網羅した「薬の聖典」と呼ぶべき「医師用便覧」の中にプレドニゾンというステロイドの項目があり、副作用が次のように記されている。

     高血圧、筋力低下、穿孔と出血を伴う消化性潰瘍、怪我の治癒能力の低下、発汗、
     めまい、けいれん、生理不順、子どもの発育障害、精神障害、緑内障、糖尿病、

 皮膚に出来たわずかな発疹を抑えるために、以上のような「悲惨な副作用がひとつでも現れれば大変だ」と世間の人たちは思うだろう。 だが、医者の中にはそう思わないものが多い。

 先日、アトランタ在住のご婦人から一通の手紙が届いた。この人の二十歳になる娘さんにまだ生理がないというのである。 娘さんが十一歳のときに爪先に発疹ができたことがあり、皮膚科に連れて行ったところ、医者からプレドニゾンを投与され、三年間にわたってこの薬を服用したという。 手紙にはこう書かれていた。
 「親として娘にしてやれることはないものでしょうか。
  あのとき、もし皮膚科の医者がプレドニゾンは生殖機能に変調をきたす恐れがあることを説明していたら、
  発疹を放っておいたとおもいます」

 また、オハイオ州の若い女性からの手紙には、次のような体験が書かれていた。
 「うるしにかぶれ皮膚科を受診したところ、プレドニゾンを処方され、その後ケナログという別のステロイド剤を注射されました。
  すると一ヶ月近くも激しい頭痛、筋肉のけいれん、胸部の腫れ、子宮内出血に苦しみました。次に婦人科を受診すると、
  『子宮内出血はカブレを抑える薬で起きたのです。子宮内掻爬術(そうはじゅつ)を受ける必要があります』と言われました」

 この処置は子宮内膜を引っかいて患部組織を除去する手術のことである。

 
DES薬害事件

 
 1970年代後半、1000人以上の女性がシカゴ大学を相手取って総額7700万ドルの損害賠償を求める集団訴訟を起こした。 1950年代にDESという世界初の合成エストロゲンを本人の同意なしに投与されたことに対する訴訟で、シカゴ大学にとって大きな痛手となった。
 この訴訟は私にとっても特別な意味をもっていた。 というのは、当時、私はシカゴ大学の医学部に在籍していたからだ。 
流産の予防として妊婦にDESを投与する実験が行われていたことは聞いて知っていた。 ただ、そのころの私は真面目な医学生で、医学部を信頼し、教授たちの判断に間違いはないと信じていた。 だから、私はその実験に疑問すら抱かなかった。
 あとから考えると、私もその女性たちもシカゴ大学医学部を信頼すべくではなかった。 なぜなら、教授たち自身、自分のやっていることがどういうことかわかっていなかったからだ。

 ハーバード大学医学部のアーサー・ハーブスト博士は
  「DESを投与された母親から生まれた女児に膣がんが恐るべき割合で発生している」
 と公表した。
 その後、男児にも生殖器の異常が高い割合で発見された。 さらにかなりの数の母親ががんに侵され、死の床で苦しんでいることが明らかになった。

 医学が科学だと信じていた私はすっかり幻滅し、どんな知らせを聞いても驚かなくなった。 ピルや更年期の女性が服用する合成エストロゲンなどの女性ホルモン剤に伴う副作用もすでに表面化していた。 そのころはDESによる胎児への悪影響は明らかではなかったが、いまはもう違う。 ハーベスト博士自身の診察記録が、DESを投与された母親から生まれてきた子どもに膣がんと子宮頸がんが300件以上も発生していることを示している。

 しかし、大切なのはDESの実験台にされた母親たちとその子どもたちに納得の行く説明をすることではないか。 病気や障害を背負って産まれてきた子どもたちにとって、リスクは100%だったのである。

 医学界はインフルエンザの患者が300人現れただけで大騒ぎをするのに、DESの被害者が300人現れることで問題はないのだろうか。

 
ピルは病気を呼び寄せる

 
 アメリカでは、あらゆる年齢層の女性に数種類のホルモン剤が投与されている。 数千万人の女性がピルや合成エストロゲンを常用している。 DESも合成エストロゲンの一種であり、性交後ののピルとして、また乳汁の分泌を抑制する薬として使われてる。

 FDAは全国の医者に、四十歳以上の女性にはピル以外の避妊薬を勧めるよう通達を出した。
 さらに、ピルを服用している四十歳以上の女性に小冊子を配布し、心臓病のリスクが異常に高いことを警告するように医者に要請した。 しかし、こういった措置が成果を挙げているかどうかは疑問である。 なぜなら、四十歳以上の女性は、情報が十分に伝わっていないか危険を覚悟しているか、いまだにピルを服用しているからだ。
 また、ピルを服用している女性の大多数は四十歳未満であり、比較的若い彼女たちにとってもピルのリスクは大きい。 心臓病だけでなく肝腫瘍、頭痛、うつ病、がんなどを引き起こす恐れがあるからだ。 ピルの服用者はひ服用者と比べると、心筋梗塞で死亡する確率が四十歳以上で5倍、三十歳代で3倍である。 それ以外の病気発生率を比較しても、脳卒中が4倍、血栓塞栓症が5倍以上、高血圧症が6倍である。

 ピルの巨大市場を維持するためには、医者は「ピルの服用は妊娠よりも安全です」と女性に教える。
 こんな理屈は非論理的で非科学的だ。 ピルのリスクは表面化している。
 そのリスクとは、不自然な化学物質が女性の体の諸機能を阻害することだ。 それに対し妊娠は自然な生理現象である。
 女性が健康であるなら、いつでも妊娠に備える準備ができている。 ピルの服用は病気を呼び寄せる行為なのだ。

 妊娠のリスクとピルのリスクを比較することが、そもそも科学的ではない。リスクを比較するならピルとピル以外の避妊薬と比較するべきだ。

 アメリカではピルを服用している約1000万人の女性に加え、閉経期の500万人以上の女性が合成のエストロゲンを服用している。この薬は胆嚢炎と子宮ガンの発生率を5倍から12倍に高める危険性が指摘され、FDAはピル同様、医者と患者に警告してる。だが、医者に関するかぎり、警告はほとんど無視されている。 この薬は閉経期の不快な症状を予防するという目的で多くの病院で処方されているのが実情だ。

 合成のエストロゲンは、若さの維持、うつ病の軽減、心臓病の予防という名目で投与されているが、合成では実際そんなに効果がないことが証明されている。 高齢の女性には骨粗鬆症の予防に役立つと言われているが、骨粗鬆症の予防は運動療法と食事療法でできるし、しかもそれならがんになるおそれもない。

 医者は、薬を使わずに治療する可能性を真剣に探すことは全くない。 医者にそんなことを期待するほうが野暮なのだ。

 
降圧剤での副作用は?

 
 それほど危険でない治療法でも、十分な効果を上げられる病気に対しても、多くの新薬が開発され処方されている。
 降圧剤が開発されたときも、それまでこの種の薬がなかったのですぐに人気がでた。 おかげで医者は患者に生活改善を呼びかける必要がなくなり、降圧剤の処方箋を書き、それを服用するよう患者に指示すればいいのである。 おまけにテレビやラジオ、雑誌で製薬会社が降圧剤の宣伝をしている。
 だが、医者は「降圧剤の服用は高血圧症の唯一の治療法です」と説くばかりで、この薬の副作用について警告しようとはしない。
もちろん医者は降圧剤の副作用についてよく知っている。 なぜなら、医学雑誌には降圧剤の副作用を抑える薬の広告がたくさん載っているからだ。

 降圧剤の副作用を紹介しよう。

   発疹、じんましん、光線過敏症、めまい、虚弱、けいれん、血管の炎症、皮膚のひりひりするような刺激
   関節炎、精神障害、意識障害、集中力の欠如、ひきつけ、吐き気、性欲減退、性交不能症、

 ちなみに、ここに挙げられている最後の副作用は、降圧剤を服用している男女両方に見られる現象である。 中年の人たちのあいだで、心理的要因ではなく降圧剤の副作用のためにインポテンツを含め性交不能症に陥って悩んでいる人は、かなりの数に上る。 世界のどんなセックス療法をもってしても、薬物療法がひき起こす副作用での性交不能症を治すことは出来ない。
 降圧剤の副作用を知らない医者は失格である。 これは、製薬会社が「医師用便覧」に副作用を明記してあるからである。

 ほとんどの医者は降圧剤の効果を疑問視する議論があることを知っている。 たしかに高血圧症は危険だが、降圧剤を安易に処方する医者は見識を疑われてもしかたがない。 降圧剤を服用している患者の多くは境界域に属し、危険を冒してまでこの薬を服用しなければならないほど血圧が高いわけではない。

 ある研究では、高血圧症の患者の多くは、降圧剤に頼るよりもリラクゼーションや食事療法、生活改善に取り組んだほうがより速やかに、より確実に血圧を下げることが出来ると報告されている。 さらに、減量、塩分摂取の制限、菜食主義の食事、適度の運動といった方法が、薬物療法よりも効果があり、しかも安全に血圧を下げることが出来る。

 要するに患者は降圧剤を服用してまで血圧を下げる必要はないのである。
 診察室という危険地帯を脱出すれば、心身の緊張がほぐれ血圧は正常に戻るのだから。

 
現代医学の不文律 「新薬は早めに売りさばけ」

 
 伝現代医学の不文律のひとつに「新薬は早めに売りさばけ」というものがある。 つまり、新薬は副作用が現れる前に処方箋を書いて売りさばいてしまえということだ。
 この不文律を露骨に示すのが、疑うことを知らない関節炎の患者に新しい消炎剤が大量に処方されていることである。 これこそが「治療は病気よりもひどい」という現代医学の特徴を最も明確に示している事例である。

 消炎鎮痛剤の宣伝が医学雑誌に数多く掲載されている。 それは、ブタゾリジンやインドシン、トレクチン、モトリン、ナプロシンなどの登場を告げるものであった。 製薬会社は時間と金を惜しまず関節炎の治療薬の販売合戦を繰り広げ、全国の医者はこれらの薬を数百万回も処方した。
 その結果、わずか数年後に消炎鎮痛剤は発症する副作用の新記録を樹立した。 関節の痛みを和らげるはずのこの薬が、
抗生物質とホルモン剤に並ぶ危険な医薬品として無数の人々に多大な苦痛を与えることになったのである。
 ブタゾリジンの添付文書の内容を紹介しよう。
 これを読めば、医者が患者にこんな薬を処方し、患者を増やす努力をしているのかがわかる。

  「これは劇薬です。使用法を間違えると、重大な副作用をひき起こす恐れがあります。
   服用期間に関係なく、白血病をひき起こした事例がいくつも報告されています。
   患者の大多数は四十歳以上です」

そして副作用として

  「頭痛、めまい、昏睡、高血圧、網膜の出血、肝炎など全部で92の症状があります」

と書かれている。 これではこの薬の処方は、患者への意図的な障害行為と同じである。 
添付文書はさらにこうつづく。

  「患者には注意して指示をだし、経過を十分観察する必要があります。
   とくに四十歳以上の患者で、薬に対する反応が強い場合は要注意です。
   可能な限り量を制限してください。
   致死的な反応を起こす危険性と、当初は予想していない効能・効果を比較検討してください。
   なお、病状はこの薬では変化しません」

この添付文書を読むと、二つの疑問が頭をよぎる。
   なぜ、製薬会社はこんな薬を売るのか?
   どんな医者がこんな毒物を処方するのか?
製薬会社に関する限り、最初の疑問の答えは明らかである。 莫大な利益が得られるからだ。 
では、医者はどうか。 次の推理が成り立つ。
   この薬の重大な副作用を認識していない。
   効果・効能が予想できず、患者が死ぬ恐れがあると知らされても意に介さない。
   人知を超越し、自分の判断、行動が正しいと思っている。

 ナプロシンを例にとっても、現代医学はどこまで人命を犠牲にすれば気が済むつもりなのかと疑問に思う。 FDA(食品医薬品局)は、製造元のシンテックス社が、安全性検査で実験動物の死亡と腫瘍の記録を捏造していた。 にもかかわらず、FDAがこの薬を市場から回収することにはきわめて慎重で、莫大な手間と時間のかかる行政上の手続きが必要だという。

 
薬漬けにされる子どもたち

 
 中世のヨーロッパでは、正統から外れた思想や信仰を報じる異端者を摘発して処罰する異端審問が盛んに行われていた。
いま、現代医学教もこれと同じ事をやっている。 その最たる例は、注意欠陥多動障害の子どもへの薬漬けである。

 本来行動を制御する薬は、重度の精神病患者の治療に限定して使用されるものだった。 しかし、現代ではリタリン、デキセドリン、サイラート、トフラニールといった薬が、全米で100万人以上の子どもたちに処方されている。 しかも、注意欠陥多動障害や軽度の脳損傷という、あいまいな診断に基づく処方である事が多い。
 的確な検査であれば、症状は確定されるだろう。 だが、注意欠陥多動障害に関連する約20種類の症状を見極める検査方法は、ひとつとして存在しない。 症状を確定できない検査は、症状と同じ数だけある。
 医者はこうした無意味な検査をこなし、専門家という立場で推測して病状を決めるのである。

 テキサスの小学校での実話を紹介しよう。 その学校では、脳損傷の児童に支給されてる政府の助成金を得る目的で、不正確な診断によって一年間に全児童の四割を「軽度の脳損傷」と診断していた。 二年後、言語障害の児童が支給対象になると「脳損傷」の児童は姿を消し、全体の三割の児童が「言語障害」と診断されたという。
 もし、学校が教職員の給料や書籍代、運動器具などに助成金を流用していたら、横領と同じといえるが、まだ許せる。 
 だが、子どもの意欲を起こさせる対策を実施しないで、授業中にじっとしていられないという理由だけで注意欠陥多動障害と診断し、薬で自由を奪ったのは明らかに大きな問題だ。
 しかも、そのとき子どもたちが飲まされた薬には重大な副作用があった。 子どもの成長を妨げ、高血圧、神経過敏、不眠症などをひき起こすだけでなく、やがて薬物依存症になるという恐るべき副作用だったのだ。

 たしかにこの薬は子どもを落ち着かせるが、同時に反応が鈍くなり意欲が減退し、明るさがなくなり無気力になっていく。 しかも、長期にわたって観察すれば、薬物療法が子どもたちに何の利益にもならないことがわかる。
 この薬の開発に携わる研究者たちは、自分たちはこうした現状に責任がないことを強調するため「問題は薬ではなく医者の乱診と誤診と薬の過剰投与にある」と主張する。 それで自分たちの立場は守れるかもしれないが、薬の使用を適切に制限する努力を怠っていたという批判、責任は免れることは出来ない。

 ある医学雑誌に3ページにもわたる広告が掲載され、教師が誇らしげに語っていた。
 「素晴らしい! この薬のおかげでこの子の字が見違えるほど綺麗になった」 字が綺麗になる劇薬が発売されるのは人類史上初めてであり、しかも大成功を収めている。 アメリカでは100万人以上の子どもにこの薬が投与され、年間数千万ドル(数十億円)の利益が製薬会社に転がり込んでいる。

 現代医学教の姿勢・体質が、子どもを管理する薬漬け医療にはっきりと現れている。 現代医学教は、社会生活から逸脱する行為を病気と決めつけ、それに該当する子どもたちは、医者によって薬漬けの処理をされ、教師の都合の良い子どもたちへと換えられる。 そもそも学校とは、学問によって知識を一般に開放する制度ではなく、管理しやすい人間を作り出す制度なのだ。 現代医学と国家はその目的を達成するために手を携える。 すなわち、現代医学は国家に適合する行動基準を強制し、国家は現代医学が繁栄する価値観を強制する。
 いずれも国民の健康管理という名目で行われる。 そして国家は現代医学の「聖水」の権威にも力を貸し、患者には「聖水」が欠かせないものとして強制する。
 現代医学教で言う「聖水」とは、予防接種に使うワクチンと、産婦と入院患者に投与する点滴液のことだ。これらは人々に意思に関係なく半ば強制的に押し付けられる。 いずれも99パーセントは不要であり、しかも安全性に疑問がある。

 
医者と患者の関係の本質と医者が薬のこだわるわけ

 
 「患者に害を及ぼすな」という教えは、医学生が教えられる医学の第一の鉄則で、患者になんらかに症状が現れた時は、論理的に判断し症状の原因を考え対処法を見出すことが正しい医学なのだが、残念ながら医者になってから実践する者はほとんどいない。 それ以外にも「ひづめの音が聞こえたら、シマウマではなくウマだと思え」という教えも学ぶ。 シマウマはウマと違い文明圏にはめったに存在しない。 つまり、患者に何らかの症状が現れれば、論理的に考えて妥当な判断をくだし、そのうえで症状の判断を考えよ、ということだ。 しかしながら、この鉄則も医者になってから長く実践する者はほとんどいない。 こんな風に律儀にやっていては、高価な劇薬を使う医療は出来なくなるからだ。
 そこで、医者は患者を診れば「シマウマ」だと重い、妥当性のない判断をしたうえで治療にあたることになる。

 たとえば、子どもが授業に退屈してそわそわし出せば注意欠陥多動障害だから、薬を。
 運動不足が原因で関節が硬くなれば、薬を。
 血圧が少し上がれば、薬を。
 鼻が詰まれば、薬を。
 人生が思うようにいかず悩んでいれば、薬を。
 
こんな具合でなんでもかんでも薬を処方する。

 医者が「シマウマ」現象を見続け、薬を処方し続ける原因は、多額な報酬が絡んだ製薬会社との癒着である。 製薬会社は全米の医者一人ひとりに年間6000ドルを投資し、自社製品を使ってもらうため努力している。 製薬会社が派遣する医薬情報担当者は製薬会社の営業社員であり、彼らは莫大な利益を得るために医者と友好関係を結び、販促活動の一環として接待はもとより、使い走りから御用聞き、薬の無料サンプル配布まで精力的に働いている。
 悲しいことに、医者が薬の使用に当たって製薬会社から入手する情報は、製薬会社の営業社員や医学雑誌のj広告から得たものがほとんどである。 そして、臨床試験(治験)の報告書は、製薬会社が医者に委託研究費を払って作成してもらったものだから、信憑性はほとんどない。
 四人のノーベル賞受賞者を含む著名な科学者で構成された委員会が、薬に関する問題を話し合った結果、諸悪の根源は医者がずさんな臨床試験を行っていることにあると断定している。

 FDAが臨床試験にかかわっている医者を無作為に抽出し、その仕事振りを調べる抜き打ち検査を行った。 その結果は「アメリカ医師会雑誌」に報告されているが、要点を少し紹介しよう。

  ●全体の二割が不正確な分量を使ったり、データーを改変したりなどさまざまな不正行為を行っている。
  ●全体の三分の一が臨床試験を行っていない。
  ●約三分の一がデーターを捏造している。
  ●臨床試験データーに科学性が認められるものは、全体のわずか三分の一程度である。

 こうした裏づけで、製薬会社と医者の癒着が、腐敗と薬害の温床になっていることは明らかである。 とはいえ、製薬会社とその営業員、政府の監視機構、さらには薬をせがむ患者に日があるとは私は考えない。 問題の大半は医者にあるのだ。 医者は医薬品情報を入手できる立場にあり、臨床試験で重大な副作用が判明すれば身長投与を心がける義務がある。 だが、医者は無節操に薬を処方し、患者より精神的に優位な立場に立って、服務の支持を患者に出している。 

 製薬会社は企業なので、目的は利益の追求である。 自社製品を高い値段でたくさん売ろうとするのは当然である。 製薬会社が臨床試験、認可、流通の過程でずさんなことをする傾向にあることも事実だが、薬を市場に出す段階で、それとなくではあるが、副作用と禁忌に関する情報を医者に通知している。
 薬の副作用と禁忌に関する情報を患者に開示することを求められても、製薬会社は反対する理由はない。 アメリカ医師会がすでに反対してくれているからだ。 医者は「患者との信頼関係が崩れてはいけない」という理由で、患者に副作用をかなり控えめな表現で伝えるか完全にかくしている。
 医者は「薬について説明していたらいくら時間が合っても足りない」とか「患者が副作用について知ってしまったら、薬を飲まなくなる」という。 つまり、医者が守っているのは患者ではなく患者との信頼関係なのである。 しかもその信頼関係は、医者が患者に真実を知らせないことで成立する。 したがって医者と患者の信頼関係は、患者の一方的な妄信に依存しているのだ。

 もし医者が「患者に害を及ぼすな」という医学の第一鉄則を守っているなら、患者の妄信に依存する必要はない。 薬の副作用と効能を比較するとき、医者が何よりも優先しなければならないのは患者の安全である。 しかし、医学の第一鉄則は現代医学の腐敗した論理規範によってゆがめられ、全く異なる論理基準を生み出した。 それは「患者に何らかの事をせよ」である。
 この基準にしたがうと、薬の処方であれその他の治療であれ、医者が何らかの事をしないと患者に害を及ぼすことになる。 そしてその治療が有効かどうかは問題ではない。 患者に害を及ぼすかどうかはもっと関係ない。 そして、もし患者が治療を受けて苦痛を訴えれば、医者は「痛みと上手に付き合いなさい」というだけである。

 医者が薬物療法にこだわるのは、効率性を追求しているからだ。 診察室で患者の栄養状態から普段の運動状況、仕事のストレス、精神状態までいちいち細かく問診していたら、さばける患者の数も限定される。 それに対して薬物療法なら、処方箋ひつで診察を終えることが出来る。 実際、出来高払い制では、薬物療法によって医者だけでなく薬剤師と製薬会社にも利益がもたらされる。
 しかし、医者が薬物療法に頼るのはもっと深いところに理由がある。 
 西洋医学(現代医学)の医者や医者をサポートすべき国家の行政機関が、病気の治療について間違った信念を持っている。 病気に対してと規定部位や症状のみを見つめて治療する、部分治癒を目指しているからである。 その結果、診療科目も複雑に増え専門治療化してきているが、互いの連携がとりにくくなり、正確な判断もしにくくなっている。

 西洋医学を除いて世界の大多数の医学体型は食物を重視している。 ところが現代医学での食物とは薬のことなのだ。 痛風や糖尿病、高脂血症の対策として減塩や低コレステロールといった食事療法は存在するが、どれも断片的で正確さに欠けることが多い。 現代医学では食生活の重要性を無視し、医者が栄養の勉強をし食事指導をすることはほとんどなく、栄養に関心を寄せる医者は「変わり者」「やぶ医者」といったレッテルが貼られる。 それに対し東洋医学では、食物が健康に及ぼす影響を重視する。 健康に関する限り、口に入れる食物は口から出てくる言葉と同じくらい大切である。 実際に食物が人の性格を左右することすらある。 だが、そういう主張をする医者は医学界から異端者という扱いを受ける。
 現代医学で言う食物とは、良し悪しは別として、体内に入って血流に乗り全身をかけ巡る薬という名前の人口化学物質のことである。

 
毒性のない薬は薬ではない

 
 薬を売りさばく医者からわが身を守るには、思い切って現代医学教への信仰心を捨て、医者を信頼しないことだ。 医者の処方する薬は危険と想定したほうがいい。 世界有数の製薬会社イーライ・リリーの創業者イーライ・リリー自身が「毒性のない薬はもはや薬ではない」と言ったことがある。 まさにその通りで、どの薬に対しても疑ってかかるべきである。

 特に妊婦にとっての薬の服用は、胎児にも悪影響が及ぶため、二重に危険である。 妊婦は薬と縁を切らなければならない。 自分には無害なように思えても、胎児にとっては取り返しのつかない場合があるからだ。 何百という薬が胎児への悪影響という問題を残したまま市場に出回っているのが現状である。 わが子の幸せを化学にささげ、副作用の第一発見者になりたくないなら、自分の命が危ない状況でない限り、妊婦は薬を服用すべきではない。

 解熱鎮痛剤のアスピリンも同じことが言える。 1899年から家庭用の常備薬として親しまれてきたので、副作用のある危険な薬として認識されていない。 しかし、胃内部の出血という頻度の高い副作用をはじめ、出産前の72時間以内に産婦が服用すると、新生児の頭皮内部で出血を起こすことすらあるのだ。
 医者に処方された薬を飲む前に、患者はその薬について医者より詳しく知っておくべきだ。 医者は薬の情報を医学雑誌の広告、製薬会社の営業員、薬の添付文書から得るが、医者自身で薬についての良し悪しを勉強することはない。 患者は自分に処方された薬の副作用情報を記した市販の辞典に目を通しておくとよい。


複数の薬を併用する危険性

 
 現代では多剤併用療法が普及しているが、薬物の相互作用についてしっかり理解しておく必要がある。
 ある薬は一回の服用で、臓器Aに3〜4%、臓器Bに2%、臓器Cに6%の確率で副作用の可能性がある。 その薬と一緒に飲む薬には臓器Dに3%、臓器Eに10%の確率で副作用があるとしよう。 そうすると、この二つの薬を何回か併用すれば、副作用を起こす可能性は全ての臓器で100%を超え、確実に副作用で苦しむことになる。

 さらに危険なのが、負の相乗作用である。 ひとつの薬の副作用が5%程度の危険性にすぎなくても、飲み合わせによってそれが二倍、三倍、四倍、五倍と増幅されていく。 しかも、その危険性は発生率だけでなく強度においても増幅される。 患者は医者の薬の処方前に服用中の薬を知らせることも大切だが、多剤併用療法で起こりうる薬害については医者の知識に頼ってはいけない。

 
精神安定剤の落とし穴

 
 適用生徒副作用が同じ、つまりその薬で効く症状とその薬で起こる副作用が同じ薬が存在する。 しかも、この種の薬は珍しくない。 そのひとつが驚異的な売上を記録しているベンゾアゼピン系の精神安定剤(抗不安薬)である。 その添付文書を見ると、適応症状と副作用がほとんど同じことに気付く。

  適応症: 不安、疲労、抑うつ、激しい動揺、震え、幻覚、骨格筋のけいれん、
  副作用: 不安、疲労、抑うつ、激しい興奮状態、震え、幻覚、骨格筋のけいれん、


こういう薬はどんな基準で処方すればいいのか。 この薬を処方して症状が続く場合、どうすればいいか。 副作用を考慮して処方を中止すべきか、効能を期待して用量を倍にすべきか。 
こんな薬を処方する医者は、何を期待しているのか理解に苦しむところだ。

適応性と副作用がほとんど同じのこの精神安定剤は、年間6000万回も処方され、人類史上最も売れる薬となっている。

 
薬を服用する前に

 
 患者は処方薬を飲む前に、次のようなことを医者に聞いておくべきである。

  「この薬を服用しないとどうなりますか?」
  「この薬にはどんな効果があり、どのように作用するのですか?」
  「どんな副作用がありますか?」
  「この薬を飲んではいけないのは、どんなときですか?」


しかし、いずれの質問にも医者から満足な回答は引き出せない。 それは医者も薬の開発者も薬の作用のほとんどが謎のままだから、答えることが出来ないのだ。 仮にわかったとしても、薬を服用するかどうかは別な問題であり、医者の言葉を信じてはいけない。  たとえ、副作用を認めても、「それはごくまれです」とか、「薬と仲良く付き合いなさい」といって危険性を割り引いて説明するからだ。 
 たとえ危険性が低くても、安全というわけではない。 氷山を回避した船が、海面下の氷に気付かず衝突し沈没してゆくのと同じである。

 服薬はよくロシアンルーレットにたとえられるが、それと決定的に違うことは、薬を飲めば必ず何らかの副作用があり、体が確実に蝕まれるということだ。 医者はこの点について真剣に考えようとせず、患者に「何らかの事をせよ」という腐敗した医学の基準にしたがって、ひたすら薬を処方する。
 薬の危険性は患者自ら判断するしかない。 自分で注意していれば服用してはいけない体の状態がわかってくるし、しかもそれは本人にしかわからないことだ。 疑わしい効能を信じて、副作用の危険を冒してまで薬を飲む必要があるかどうかを判断するのは自分自身だけである。

 そして、忘れてはならないことは、患者には服薬を拒否する権利があるということだ。 これは自分の命がかかっているのだから当然のことであり、これは日ごろから自分自身に言い聞かせておかなければならない。 薬の服用に不安を感じたら、すぐに医者に問いただすべきである。 薬を飲みたくないことを医者にわかってもらうように努める必要がある。 じっくり話し合うと、その対応から医者の判断も素人と同様、かなりいい加減なことがわかるはずである。 
 調べた結果、副作用以上の効能があると思っても、安心するのはまだ早い。 身を守るにはそれだけでは不十分だからだ。 医者の指示が「医師用便覧」に書かれている服用上の注意と違っている場合は、医者に質問する必要がある。
 医者からは「私の指示通り服用すれば一番よく効く」と言う答えが返ってくるだろうが、この瞬間医者は致命的な判断ミスを犯している可能性が高い。

 医者の指示に従わなければならない理由があるとすれば、医者が副作用を監視する必要があるからだ。 服用上の注意に明記してあるから、どの医者も知っているはずだが、この義務を果たしている医者は少ない。 したがって、自分の体がどう反応しているかを確認するのは自分自身ということにおなる。 自分にしかわからない気分などをきちんとメモして置くことが大切だ。 些細なように思う副作用などでも、自己管理が自らを助けてくれる。

 副作用が一時的な薬もあり、患者はその程度のことで服薬を中断したくないかもしれない。 しかし、症状が深刻なら医者の連絡を待っていては手遅れになるから、直ちに病院の救急処置室に駆け込むといい。 そうしておけば、自分を守るだけでなく、医療訴訟になったときにも万全の体制で臨むことが出来る。
 患者が副作用を訴えたり特定の薬を拒んだりすると、医者は別の薬を処方することがある。 だが、違うのは商品名だけで、中身は同じであることが多いから要注意だ。 医者がこんなことをするのは、薬のことをほとんど知らないか、患者をだましているかのいずれかである。

 
世間の常識とかけ離れた医療倫理

 
 現代医学の医者がどうしても薬を処方しようとするのは、それ以外の治療法について知らないからと、薬を使わない治療法があるなどということを信じていないからだ。 

 薬物療法を嫌がる高血圧症の患者には、ひとまず運動療法で原料させようとするかもしれないが、医者は本気で患者と向き合うことはない。 理由は二つある。 まず、運動療法をはなから信じていないこと。 次に、栄養とか生活改善について、患者に助言するだけの知識を持ち合わせていないからだ。 きちんとした知識を身につけている医者もいなくはないが、それは医者の50人に一人くらいの割合である。
 患者にしてみれば、薬を使わず治療してほしいと願うのは当然であるが、医者にとっては理不尽な要求なのだ。 医者の基準と患者の基準は相容れられることはないが、別に驚くことではない。 そもそも医療倫理は世間の常識と相容れないからだ。

 手術のさなかに患者の腹部から前の手術でとり忘れたガーゼが見つかり、それが原因で患者が死亡したという場合を考えてみよう。
 世間の常識では、真っ先に患者の家族にそれを伝えるはずだ。 ところが医療倫理では、外科医が手術に立ち会った全員に口止めを命じる。 もし看護師がこの命令を無視して遺族に真相を伝えれば、その看護師は解雇される。

 アメリカ医師会の倫理規定には、医学博士の学位を持つ者は異端者との親交はもとより、言葉を交わしてもいけないことになっている。

 患者に平然と薬を処方する医者とは、こういう人間なのだ。
 ひとびとは自分の身は自分で守る必要があることを肝に銘じるべきである。


第1章 医者が患者を診察するとき へ戻る 第3章 医者がメスを握るとき へ進む 


医者が患者を騙すとき目次に戻る


inserted by FC2 system